ガラスの中のごほうび

ウラシリ怪談

ある朝、警察犬が、前夜から行方の分からなくなっていた七十代の男性を、靴のにおいを頼りに捜し始め、約二十分で発見したという記事が出ていました。捜索は夏の終わりの未明に行われ、後日の表彰では、犬用のガムが贈られたそうです。

その記事を読んだ、元ビル管理者の男性から聞いた話です。男性が気になったのは、「靴のにおい」と「二十分」、それから「犬用ガム」という三つの記述でした。ずいぶん前、自分の管理していた建物でも、それによく似たことがあったのだといいます。

一階には、通りに面したガラス張りの小さな事務所がありました。その頃は退去したばかりで、室内には青い回転椅子が三脚並び、左側には運び出しを待つ段ボール箱が積まれていました。白いタイルの床には何もなく、外から見ると横断歩道や街路樹、青い駐車標識がガラスへ重なり、室内と道路が一枚の面に混ざって見えたそうです。

ある日の明け方、その通りで行方不明者の捜索が行われました。家族から預かった靴のにおいを覚えた捜索犬が、歩道をまっすぐ進んできたといいます。ところが事務所の前まで来ると、犬は急に足を止めました。

鼻先は、閉じたガラスのほうを向いていました。

犬はガラスの下端を右へ左へと嗅ぎ、三脚の青い椅子が見えるあたりで座り込みました。担当者が促しても動かず、しばらくすると、何もない室内へ向かって小さく鼻を鳴らしたそうです。管理者が鍵を持っていたため、事務所を開けることになりました。

扉を開けると、犬はすぐ中へ入りました。けれど段ボールにも椅子にも寄らず、室内側から先ほどのガラスへ近づき、同じ場所を嗅ぎ始めたといいます。

つまり、外にいた時も、内側へ入ってからも、犬はガラスの向こう側を探していました。

事務所には誰もいませんでした。荷物の陰にも、奥の小部屋にも、人が隠れられる場所はありません。担当者は何度か靴のにおいを嗅がせ直しましたが、そのたび犬は同じガラスへ戻ったそうです。

それから二十分ほどして、無線に連絡が入りました。捜していた人が、そこから離れた自宅近くの道で見つかったという知らせでした。怪我もなく、家族と一緒に帰れる状態だったそうです。

捜索が終わると、近くで一部始終を見ていた人が、犬に小さな犬用ガムを買ってきました。「よく頑張ったね」と渡されたそれを、犬はすぐにくわえたといいます。ところが食べようとはせず、例のガラスのところまで運び、外側の縁へそっと置きました。

呼ばれると犬は振り返り、そのまま担当者について帰っていきました。ガムだけが、歩道側に残りました。

管理者は夕方にもそこを通りました。ガムはまだありました。翌朝片づけようと、そのまま事務所を施錠して帰ったそうです。

翌朝、歩道にガムはありませんでした。

かわりに、ガラスの中にありました。

室内に落ちていたのではありません。外側にも貼り付いていません。二枚のガラスの、その間に挟まっていたそうです。

横から見ると、茶色いガムは数ミリほどの薄さにつぶれ、膝より少し低い位置に浮いていました。昨日、犬が置いたものと同じ場所です。端には、くわえた時についたらしい小さな歯形も残っていました。

事務所のガラスは、上下左右を金属の枠で固定されたものでした。ガムを押し込めるような隙間はなかったといいます。結局、その一枚だけを業者に外してもらうことになりました。

外したあとも、ガムは落ちませんでした。

二枚を分けて、ようやく取り出せたそうです。中は乾いており、水も虫も入った形跡はありません。そこに、犬用ガムが一つだけあったといいます。

担当者にも来てもらいました。念のため、新しいガムを犬へ渡すと、犬はいつものようにその場で食べました。ところがガラスから取り出したほうを近づけると、口を開かず、一歩だけ後ろへ下がったそうです。

それから、ガラスのなくなった窓枠を見ました。

鼻を上げ、一度だけにおいを取る仕草をして、その場へ座ったといいます。

数日後、捜されていた人が家族に付き添われ、世話になった人たちへ礼を言いに来ました。犬の前まで来ると、その人は腰を少し曲げ、頭を撫でながら、「見つけてもらって、よかったよ」と何度も言ったそうです。

犬は尻尾を振りました。ただ、時々その人ではなく、空になった窓枠のほうを見ていました。

管理者が、ガラスから出てきたガムのことを話すと、その人はしばらく黙ってから、「じゃあ、それはこの子のじゃないのかもしれませんね」と言ったそうです。誰のものなのかと尋ねられても、それ以上は答えませんでした。

帰り際、その人は犬に向かって、

「まだ誰かいるなら、見つけてあげてね」

とだけ言ったといいます。

ガムは捨てられず、透明な袋へ入れて保管されました。ガラスは新しいものに交換され、事務所もほどなく別の用途に使われることになりました。その直前、通り側から一枚だけ写真が撮られています。

青い椅子が三脚。左側の段ボール。白いタイル。そしてガラスに重なった、横断歩道と街路樹。

今回送られてきたのが、その写真だそうです。

写真そのものには、変わったものは写っていません。

ただ、あの記事を読んだ朝、元管理者は久しぶりに保管していた透明袋を出したといいます。中のガムは硬くなり、色も少し濃くなっていました。歯形も、あの日のままでした。

袋は開けなかったそうです。

それでも手に取った時、古い革靴を長くしまっていた玄関のようなにおいが、ごく薄くしたといいます。

あの犬がガラスの向こうで探していたものと、同じにおいだったのかどうか。

もう一度確かめてもらった人はいないそうです。

ただ、ガラスの中から取り出されたごほうびだけは、今も残っている……そんな話を聞きました。

この怪談は、以下の記事をきっかけに生成されたフィクションです。

【お手柄】警察犬「フック号」靴のにおいで行方不明の高齢男性を発見 犬用ガムをプレゼント 福岡

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