その建物の裏手には、薄いベージュ色の壁に沿って、電気メーターの収まった白い盤が横長に並んでいた。脇には給湯器と配管、その隙間には青いシートが押し込まれ、盤や給湯器には「タバコ吸わないで」という紙が何枚も貼られている。表通りから数歩入っただけなのに、人が用もなく立ち止まるような場所ではなかった。
古い雑居ビルで、電気設備の更新工事が行われた時のことだ。四つ並んだメーターのうち、一番端の一台だけ、管理台帳に対応する部屋番号がなかった。現在使われている店舗や事務所の数より、メーターが一つ多かったのである。
理由はすぐに分かった。十年ほど前の改装前、その場所には小さな管理人室があり、問題のメーターはそこへ電気を送っていた。部屋はすでに撤去され、今では壁の向こうも倉庫の一部になっているという。
当然、そのメーターも使われていないはずだった。
ところが交換前の確認中、作業員は黒い表示窓の端にある小さなランプが一度だけ点滅するのを見た。電気が使われた時に点く、計量用のランプだった。
管理人室につながっていたブレーカーは落ちていた。それどころか、盤の内部を確認すると、メーターから先の配線は途中で切断され、端末処理までされていた。電流計を当てても数値はゼロだった。
数分待つと、またランプが光った。
その日の作業はそこで中断された。故障したメーターを交換するだけなら簡単だったが、電気の流れる先が存在しない状態で計量だけが行われている理由を、業者側で説明できなかったからだ。
念のため、翌日から一週間だけ記録を取ることになった。
異常な使用量が現れるのは、毎晩ほぼ同じ時間だった。午後九時五十七分ごろ、まず二十ワット前後の小さな負荷が始まる。十数分後に一キロワット近くまで急に上がり、一分ほどで下がる。そのあと四十ワット前後が長く続き、午前零時半を過ぎると、きれいにゼロへ戻った。
機器の誤作動にしては、毎日の形が整いすぎていた。
記録を見せられた建物の管理人が、しばらく黙ってから言った。
昔の管理人室には、小さな蛍光灯と電気ポット、それから古いテレビが置かれていたという。
そこに住み込みでいた管理人は、夜九時を過ぎると裏手の見回りを済ませて部屋へ戻る。灯りをつけ、湯を沸かし、テレビを小さな音で流しながら帳簿をつける。そして零時半ごろになると全部消して寝ていた。
白い盤のあちこちに貼られている「タバコ吸わないで」の紙も、その管理人が貼ったものだった。裏手で煙草を吸う客が絶えず、見つけるたびに注意し、それでも減らないので、自分で同じ紙を何枚も印刷して貼ったらしい。
管理人は九年前の冬、その部屋で亡くなっていた。
朝になっても表へ出てこないため店の者が見に行くと、布団の中で冷たくなっていたという。事件性はなく、その後ほどなくして住み込みの管理人制度自体が廃止され、部屋も壁も取り払われた。
作業員たちは、その話を聞いてもすぐには結びつけなかった。昔使われていた機器の負荷に似ているだけで、数字が完全に同じだったわけではない。古いメーター内部に何らかの記録が残り、それを誤って再表示している可能性も考えられた。
だが、八日目から記録の形が変わった。
最初の二十ワットの負荷が、毎晩四分ずつ早く始まるようになったのである。九時五十七分だったものが九時五十三分になり、次の日には九時四十九分になった。
湯を沸かしたような大きな負荷も、それにつられて早くなった。ただし最後にゼロへ戻る時間だけは、毎晩ほとんど変わらなかった。
始まる時間だけが、こちらへ近づいていた。
十日目の夜、電気業者の一人と管理人が現場に残った。盤の扉を開けたまま、切断された配線を目の前で確認しながら、九時を過ぎるのを待った。
九時四十一分。
ランプが点いた。
一度。
少し間を置いて、また一度。
盤の中には、電気は流れていなかった。
作業員が測定器を見ている間、管理人は少し離れた壁のほうを見ていた。現在はただの塗装された壁だが、昔、管理人室の入口があったのはその辺りだったという。
「今、人いませんでした?」
そう言われて作業員が顔を上げた時には、何もいなかった。
管理人には、男が一人、壁の前に立っているように見えたらしい。灰色っぽい作業着の背中だけだった。こちらを向くこともなく、左手を少し持ち上げ、何もない壁へ手を伸ばした。
ちょうど、昔なら照明のスイッチがあった高さだった。
その直後、メーターの負荷が一キロワット近くまで跳ね上がった。
翌朝、問題のメーターは交換された。古い機器の異常という可能性を完全に消すため、新品を取り付け、管理人室へ向かっていた配線はメーターの直後で完全に外された。作業報告書にも、負荷側未接続と明記された。
三日間、何も起こらなかった。
四日目の夜、新しいメーターに〇・一四キロワット時の使用記録が残った。
開始時刻は九時五十七分。
そこから十数分後に一度だけ負荷が大きく上がり、午前零時三十二分に止まっていた。
業者はメーカーへ問い合わせたが、遠隔操作や試験によってそのような記録が生成される仕様ではないという回答だった。しかもメーター交換当日の作業写真には、負荷側端子に何も接続されていない状態がはっきり残っていた。
その後、建物側は問題の回路をこれ以上調べなかった。
使用量も、電気代にすれば無視できる程度だったからだという。
ただ、裏手の白い盤を塗り直す工事だけは一度延期された。
塗装業者が、貼ってある古い注意書きを全部剥がそうとしたからだった。
管理人は止めた。
理由を聞かれても、電気の話はしなかった。ただ「それはそのままでいいです」と言って、紙の破れた部分だけ透明なテープで補強させた。
今も、その建物の裏には「タバコ吸わないで」という紙が何枚も残っている。
汚れても、端が浮いても、同じ場所へ貼り直される。
そして電気設備の点検記録には、現在も一つだけ、どの部屋にも割り当てられていない使用量が残る日があるという。
午後九時五十七分から、午前零時三十二分まで。
その時間だけは、もう存在しない部屋で、誰かがまだ暮らしている。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

