湯気の帰り道

ウラシリ怪談

東京に木枯らし一号が吹いた日のことです。都心では最大瞬間風速十六・九メートルの北寄りの風が観測され、遠く北の町では、十六年ぶりに十月の初雪が降ったと報じられていました。冬物の上着を慌てて取り出す人も多く、街には、秋が突然終わってしまったような空気が漂っていたそうです。

古い商店街の一角に、小さなおでん屋がありました。間口は狭く、奥に長い店で、入口のすぐ脇には大きな四角い鍋が据えられていました。店主は七十歳を少し過ぎた男性で、四十年以上、そこで練り物や大根を煮てきた人だったといいます。

その朝、開店の準備をしていた店主は、鍋から立ち上る湯気の中に妙なものを見つけました。

白く濃い湯気の真ん中に、細長い空白があったのです。誰かがそこに立って、湯気を吸い込んでいるような形でした。換気扇を止めても、戸を閉めても、空白は消えません。鍋の位置を変えると、湯気だけが横へ移り、空白は元の場所に残ったそうです。

店主は首を傾げながらも、開店の支度を続けました。寒さのせいか、その日は朝から客足が途切れませんでした。前日まで冷たい飲み物を買っていた人たちが、急に熱い汁を求めるようになったのです。店主も、冬が一足早くやって来たのだろうと考えていました。

昼過ぎ、ひとりの老婦人が店を訪れました。昔からの常連で、店主の妻がまだ店に立っていた頃から通っている人だったそうです。大根と厚揚げを買い、包んでもらうのを待ちながら、ふと鍋の向こうを見つめました。

「……あら、今日はお連れさんがいるのね」

店主が聞き返すと、老婦人は不思議そうに首を傾げました。そして、鍋の上を指さしたそうです。

「ほら。湯気が、そこだけ避けてるでしょう」

店主には、まだ同じ空白が見えていました。老婦人はしばらくそこを眺め、それから、少し懐かしそうに笑ったといいます。

「昔はね、寒い日になると、ここでお汁を一杯いただいたものよ。お金の足りない子にも、おたくの奥さん、よく飲ませてあげていたでしょう」

店主は、もう何年も前に亡くなった妻のことを思い出しました。妻は、店で売るおでんとは別に、小さな器を何枚か用意していました。冷たい風の中を歩いてきた人に、温かい汁だけでも飲んでもらうためでした。特に冬の初めには、必ず鍋のそばに一枚、空の器を置いていたそうです。

その晩、店主は久しぶりに、棚の奥から小さな白い器を取り出しました。妻が使っていたもので、縁に薄い青い線が一本だけ入っています。空白のすぐ下に置いてみると、湯気が静かに二つに分かれ、その器を包むように流れ始めました。

すると、かすかな音がしたそうです。

……すう。

人が熱い汁を冷ましながら、そっと吸い込むような音でした。器には何も入っていません。それなのに、内側だけがゆっくり濡れ始めたといいます。店主が指で触れると、その水滴は、鍋から汲んだ汁よりも温かかったそうです。

翌朝、白い器の内側には、薄く茶色い輪が残っていました。汁を入れて乾かした時にできるような跡でしたが、店主は何も注いでいません。洗っても輪は消えず、指先で確かめると、陶器の表面ではなく、釉薬の奥に色が沈んでいるようだったといいます。

それから数日間、同じ異変が続きました。店を開けると、鍋の上には必ず細長い空白がありました。空の器を置くと、その内側に温かな水滴が溜まります。閉店後、火を落として湯気が消えても、器だけはしばらく温かかったそうです。

ところが、十一月に入ったある日、空白の位置が変わりました。

これまでは鍋の真上にあったものが、少しずつ入口のほうへ移っていたのです。最初は指一本分ほどでした。翌日にはさらに十センチほど。まるで、そこにいる何かが、少しずつ店の外へ向かっているようでした。

店主は器も移動させました。すると、そのたびに、器の内側に新しい輪が増えていったそうです。前の輪より少し小さいものもあれば、途中で途切れたものもありました。ひとつだけ妙に細長く、誰かが飲み口へ唇を寄せたような形の輪もあったといいます。

店主には、ひとつ気がかりなことがありました。

その店は、十一月末で閉めることになっていたのです。商店街の再整備が決まり、古い建物を取り壊す予定になっていました。すでに店頭には閉店のお知らせを貼ってあり、常連たちにも伝えていました。妻と二人で守ってきた店を終えることに、店主は納得していたそうです。

ただ、空白が入口へ近づくたびに、何かが先に店じまいを始めているようにも見えたといいます。

閉店まであと三日となった夜でした。最後の客を送り出し、鍋の火を消した店主は、例の器を持って入口へ向かいました。空白はすでに戸のすぐ内側にありました。店主が器を差し出すと、そこだけ冷たい空気が静かに揺れたそうです。

器の中に、ひとしずく、温かな水が落ちました。

その時、店主は戸の向こうから、小さな音を聞いたといいます。

……こと。

陶器を木の台に戻すような音でした。続いて、ほんのわずかに、誰かが息を吐く気配がありました。戸は閉まっていましたし、外に人影もありません。それでも店主は、しばらく器を持ったまま、動かなかったそうです。

それから、誰に向けるでもなく、こう言いました。

「寒くなったら、またおいで」

返事はありませんでした。ただ、器の縁から立ち上った細い湯気が、戸の隙間へ向かって、ゆっくり伸びていったといいます。

店が閉まった翌朝、入口の内側に白い跡が残っていました。

床のタイルに、細く曲がった線が一本。長さは三十センチほどで、乾いた塩のような白い結晶が付着していたそうです。店主が布で拭くと、表面の粉は取れました。ところが線そのものは消えず、今度はタイルの内側から白く浮き上がって見えたといいます。

その線は、鍋のあった場所から入口へ続いていました。途中には小さな丸い跡がいくつも並び、どれも例の器の底より少し小さかったそうです。いちばん最後の丸い跡だけは、戸の外側にありました。

店主は、その部分を削らずに残しました。

建物が取り壊される時、古いタイルを一枚だけ外して持ち帰ったのです。妻の白い器と一緒に、今も自宅の棚へ置いてあるといいます。

不思議なことに、そのタイルは、冬の初めになると少しだけ温かくなるそうです。暖房を入れていない部屋でも、白い線のある部分だけは、手を当てるとぬくもりを感じるのだとか。器の内側に残った茶色い輪も、毎年その頃になると、ほんの少し濃くなるようです。

ただ、今年になって、もうひとつ奇妙なことが起きたと聞きます。

タイルの白い線が、以前より少し長くなっていたのです。

棚の端まで伸びた細い線は、そこで途切れていました。ちょうど、店主が毎朝、温かいお茶を飲むために座る場所へ向かっていたそうです。

店主は、それを見ても何も言わなかったといいます。ただ、翌朝からはお茶を淹れる時に、小さな白い器も一緒に出すようになったそうです。

二つの器から立ち上る湯気が、いつか同じところへ流れていくのか。

それとも、あの小さな空白が、まだどこかで冬の寒さを避けているのか。

確かめた人はいません。

ただ、木枯らしが吹いた朝には、誰も使っていない白い器の内側が、先に温かくなることがあるそうです。

……そんな話を聞きました。

この怪談は、以下の記事をきっかけに生成されたフィクションです。

今シーズン一番の寒気 北日本で「初雪」東京・近畿は「木枯らし1号」あす今季一番の冷え込みに

今シーズン一番の寒気 北日本で「初雪」東京・近畿は「木枯らし1号」あす今季一番の冷え込みに | TBS NEWS DIG (1ページ)
きょうは北日本では「初雪」、東京や近畿では「木枯らし1号」が吹き、一気に冬の気配となりました。北日本には本格的な寒さがやってきました。報告「午前7時半ごろの層雲峡です。時折、強い風が吹くと、顔に当たっ… (1ページ)

この怪談の怖さを評価する

星を押して、怖さを5段階で評価してください。

平均評価 0 / 5. 読者の怖さ評価 0

まだ評価はありません。最初の評価をお願いします。

 

タイトルとURLをコピーしました