日常の崩れ

日々の営みは、わずかな綻びから静かに崩れはじめます。

平凡な記録や場面の中で起きる異変が、いつの間にか取り返しのつかない歪みを生んでいくのかもしれません……。

晩酌怪談

手前だけぼやける

休日の昼、バイスハイボールの向こうで手前の焼きそばだけがどうしても焦点を結ばず、その何気ない「ぶれ」は店を出たあとも消えてくれなかった。
写真怪談

家ではない側

廃屋だと思っていた建物を反対側から見たとき、そこには玄関も窓も、人の暮らしもあった――だが、その家には「人が物に見える側」が存在していた。
写真怪談

家のほうから

帰る家を失った母子が、八月十五日の夕方に嗅いだ懐かしい匂い。帰省とは、本当はどちらが帰ってくることなのでしょう。
写真怪談

未退勤の箸

残業を終えて自宅で食べた、塩焼きそばと一枚のソースカツ。黒い箸を持ち上げた瞬間、退勤したはずの夜が再び記録され始めた。
写真怪談

色を捨てる倉庫

ごみ収集業者の倉庫で、赤、青、黒――捨てられた物から色だけが抜け始めた。雑多な資材の奥で、それらの色は一つの形を作ろうとしていた。
写真怪談

植木のほうが下

水平なはずの住宅街で、家の中の「下」だけが、窓の外に立つ一株の植木へ向き始める。
写真怪談

横へ落ちる道

魚や草花を描いた車止めが並ぶ静かな遊歩道で、落ちる方向だけが少しずつ狂い始めます。
写真怪談

折り返しの内側

四階建ての吹き抜けで、誰もいない階段の照明が一周する。その夜から、住人たちの玄関は「別の踊り場」に現れ始めた。
ウラシリ怪談

四十度の迎え水

四十度を超えた部屋に残された、乾かない二つの水の輪――亡き妻は、夫を迎えに来たのではなかったのかもしれません。
写真怪談

鉢が食べる隙間

ハエトリグサが閉じるたび、部屋から「隙間」が一つずつ消えていく。冷蔵庫の裏、棚の下、そして指と指のあいだ――最後まで残る余白は、どこだろう。
晩酌怪談

板わさの向かい側

猛暑の昼、久しぶりに入った蕎麦屋での一人飲み。板わさの向かいには誰もいないはずなのに、醤油の小皿には、こちらへ伸びるもう一膳の箸が映っていました。
写真怪談

閉じ傘の息

客が去ったあとの椅子から、匂いだけが消えていく。閉じたパラソルの中では、代わりに四十七人分の「息」が膨らんでいた。
写真怪談

ぶら下がる順番

満員電車で目に留まった、ぬいぐるみだらけの黒いリュック。車体が揺れても動かない小さな身体と、いつの間にかこちらを追っていた無数の目。その一体が持ち主を離れたとき、逃げられない順番が始まります。
写真怪談

点呼にいない者

朝礼の写真に写っていた人数は、名簿より一人多かった。誰を数え間違えたのかではない。最後まで数えても、「余る一人」が誰なのか分からなかったのだ。
写真怪談

橋裏の通学路

学生たちが渡る橋。その立入禁止の通路では、天井を逆さまに歩く靴底が、一歩ずつ公園の奥へ向かっていた。
写真怪談

鷺の水位

夕暮れの堀に止まる鷺。その高さに合わせるように、灰色の羽毛は彼女の身体を少しずつ昇っていった。
写真怪談

十五年目のねじ

捨てた家電から抜けたねじは、いったい誰のところへ戻るのか。十五年前のリサイクルセンターで始まった異変は、今も皮膚の下で回り続けている。
写真怪談

八段目の雨

昼にはひと雨来そうだ――そんな、ごくありふれた朝だった。歩道橋を渡った日のことを、私はもう忘れようとしている。それでも写真だけは、今も削除できない。理由は、見返すたびに思い出してしまうからだ。