帰宅したのは、午前零時を回ってからだった。残業で夕食を逃し、棚に残っていたカップの塩焼きそばを作った。駄菓子のソースカツを一枚載せ、氷を多めに入れたハイボールを横へ置いた。
仕事の荷物を片づける気力もなく、閉じたノートPCの前で食べ始めた。ソースカツには濃い焦げ茶色の筋が四本あり、黒い箸で持ち上げると、その筋が横一列に揃って見えた。
箸先が衣へ触れた瞬間、PCから短い電子音が鳴った。
会社の入館ゲートと同じ音だった。
PCは電源を切ってあり、蓋も閉じていた。通知の聞き違いだと思い、そのままソースカツを一口かじった。衣が砕けた直後、また同じ音が鳴った。
今度は、閉じたPCの隙間から白い光が漏れていた。蓋を開けると、見慣れた勤怠管理画面が表示されている。ログインした覚えはなく、そもそもそのPCには会社のシステムを入れていなかった。
画面には、二行だけ記録されていた。
入館 00:38
認証媒体 二本
時刻は、箸でソースカツを持ち上げた瞬間と一致していた。入館場所の欄は空白だったが、カーソルが点滅し、やがて文字が一つずつ入力されていった。
自宅。
気味が悪くなり、無線接続を切った。PCを強制終了しても画面は消えず、勤怠記録の下に新しい項目が現れた。
休憩中。
箸を置くと、その表示が消えた。試しにもう一度持ち上げると電子音が鳴り、「休憩中」の文字が戻った。ソースカツを口元へ運ぶあいだ、画面の横では秒数が増え続けていた。
ハイボールを飲んでも何も起きなかった。麺だけを食べても、PCは反応しない。黒い箸でソースカツに触れたときだけ、入館記録が更新された。
三口目を食べたところで、箸の内側に小さなくぼみがあることに気づいた。左右に同じ数だけ、四角い穴が浅く刻まれている。買ったときにはなかった傷で、二本を揃えると会社の社員証に印刷されている識別模様と同じ並びになった。
ソースカツの表面も変わっていた。無造作に染みていたはずの四本の筋が、幅も間隔も等しい黒い帯になっている。バーコードのようなその模様へ箸を重ねるたび、PCは正確に一度だけ鳴った。
最後の一口を飲み込むと、画面の表示が切り替わった。
休憩終了 00:51
業務再開
直後、部屋の照明から低い唸りが聞こえた。自宅の照明ではない。毎晩、頭上で聞いていた会社の蛍光灯の音だった。空調の振動や遠くで椅子を引く音まで混じり、誰もいない部屋の奥で、夜の事務所だけが動き始めたように聞こえた。
PCの画面には、自宅の間取り図が表示されていた。玄関には「入館口」、台所には「休憩室」、寝室には自分が普段使っていた会議室の番号が付けられている。画面の端では、在館者数が一人と表示されていた。
電源コードを抜くと、ようやく画面が暗くなった。黒い箸は袋へ入れ、カップやソースカツの包装と一緒にごみ箱へ捨てた。その晩は照明を消さず、ハイボールを飲み切ることもできないまま朝を迎えた。
翌朝、会社の入館ゲートで社員証が拒否された。
表示されたのは「先に退館処理をしてください」という警告だった。警備員が記録を確認すると、午前零時三十八分に入館し、それ以降、一度も建物から出ていないことになっていた。
事情を説明して監視映像を見せてもらった。該当時刻の玄関には誰もいない。無人の自動扉が開き、ゲートだけが反応していた。
映っていたのは、人ではなかった。
画面の中央を、二本の黒い線が平行に通過していた。その間には、焦げ茶色の長方形が挟まっている。二本の線は小刻みに上下しながら廊下を進み、次のカメラへ移るたび、茶色い長方形だけが少しずつ短くなっていた。
最後の映像では、黒い線だけが事務室へ入っていった。二本は自分の机まで進み、キーボードの前で静止している。そこで映像は乱れ、午前零時五十一分に復旧した。
出社して机を確認すると、キーボードの上に黒い箸が揃えて置かれていた。片方の先端には以前からあった小さな欠けがあり、昨夜捨てたものに間違いなかった。
箸の下には、白い塩の粒が長方形に並んでいた。カップの縁と同じ形だった。拭き取ろうとしても粒は動かず、机の表面へ埋め込まれたように硬く固まっている。
総務の担当者が勤怠記録を削除すると、入館ゲートが一度だけ鳴った。記録はすぐに復元され、認証媒体の欄だけが書き換わった。
社員証ではなく、箸。
黒い箸は透明な袋へ封入され、施錠された保管庫へ収められた。ところが翌朝、袋は空になっていた。破れも開封の跡もなく、内側には四角いくぼみが二列に並んでいたという。
その日から、深夜零時三十八分になると入館ゲートが反応するようになった。監視映像には何も映らない。それでも在館者数は必ず一人増え、午前零時五十一分になると、無人の事務室からキーボードを打つ音が聞こえた。
自宅でも、同じ時刻に電子音が鳴り続けた。夜食を用意しない日は「休憩時間超過」と表示され、飲み物だけを置くと「食事未完了」という警告が出る。PCを処分しても、電子レンジやテレビの画面へ同じ文字が現れた。
ほどなく会社を辞め、部屋も引き払った。社員番号は削除され、勤怠システムから個人情報も消された。それでも在館者数だけは、毎晩一人増え続けた。
退職から一か月後、元同僚から入館ゲートの写真が送られてきた。読み取り機の透明なカバーの内側に、黒い棒が二本、縦に並んでいる。機械を分解しても取り出せず、翌日には数ミリずつ長くなっていたという。
それ以来、夜に箸を使うことはやめた。夕食は早い時間に済ませ、遅くなった日は酒だけで眠るようにしている。
先週、久しぶりに帰宅が午前零時を過ぎた。食べ物は用意せず、ハイボールだけを作って机へ置いた。
氷がグラスの中で沈んだとき、短い電子音が鳴った。
個人用のPCがひとりでに起動し、見覚えのある勤怠画面を表示した。
休憩終了 00:51
認証媒体 二本
所在地 寝室
寝室の扉は閉まっていた。台所の引き出しを確かめたが、箸は一本も入っていない。
翌朝、机から寝室まで、二本の細い溝が床に残っていた。溝はどこも同じ幅で、途中には四角い刻みが等間隔に並んでいる。
寝室の敷居を越えたところで、その跡は消えていた。
ただ、閉じた扉の向こうでは今も毎晩、午前零時三十八分になると、入館ゲートと同じ音が一度だけ鳴る。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

