駅前の住宅地に、古い雑居ビルがある。駅からはよく見えるのに、わざわざ見上げる人は少ない。白いコンクリートと赤茶色の煉瓦が継ぎ足されたような外観で、二階の窓の上には、文字の消えた横長の看板が残っている。
ビル自体は現役だった。ただ、入っているテナントは半分ほどで、空いた区画には以前の店の配線や棚の跡だけが残されていた。管理会社も積極的に改装する気はないらしく、借り手が決まったところだけ手を入れる、という状態が何年も続いていた。
屋上には鳩が多かった。
駅前だから珍しいことではない。線路沿いにも商店街にも鳩はいる。ただ、そのビルの鳩は、餌を探して歩き回ることがほとんどなかった。昼になると屋上の縁へ上がり、一定の間隔を空けて横一列に並んだ。
飛び立つ鳥がいても、しばらくすると別の一羽が同じ場所へ降りた。端から端までぎっしり並ぶ日もあれば、途中だけ不自然に空いている日もある。下から見ると、まるで何かの席順のようだったという。
ビルの管理を任されていた人は、鳩そのものより糞害に困っていた。ある年、専門業者を呼び、屋上の手すりや縁に忌避剤を塗ってもらった。ところが翌日には、鳩は薬剤のない数センチの隙間を選ぶようにして、また並んでいた。
そこで業者が防鳥用の突起を取り付けた。
工事が終わった翌朝、鳩はいなくなっていた。
管理人はようやく片づいたと思った。だが昼頃、二階の空き区画を内見に来た不動産会社から電話が入った。
「窓の上に、鳥が並んでますよ」
意味が分からず現場へ行くと、鳩は屋上ではなく、二階の外廊下の手すりに並んでいた。しかも建物全体ではない。空室になっている三つの区画、その前にだけ集中していた。
営業中の店の前には、一羽もいなかった。
追えば飛ぶ。だが数分すると戻る。管理人が手すりにも突起を付けると、今度は非常階段の踊り場へ移った。それでも位置関係だけは変わらなかった。
空室の前だけだった。
気味が悪いという苦情が出て、結局、屋上の防鳥設備の一部を撤去した。すると鳩はすぐ屋上へ戻った。それ以来、少なくとも人の目につきにくい場所にいるなら構わない、という扱いになったらしい。
妙なことに気づいたのは、その少しあとだった。
二階の一室に、新しく事務所が入ることになった。二年以上空いていた区画で、契約が決まった時点では、真上の屋上に十二羽ほどの鳩が並んでいたという。
内装工事が始まると、十二羽は九羽になった。
机が運び込まれた日は六羽。
看板が取り付けられた翌朝には、二羽しかいなかった。
そして営業開始の日、その区画の上から鳩は一羽もいなくなった。
逆に、その月末に退去した隣の店の上には、翌朝から三羽が並んだ。
管理人は偶然だと思おうとした。鳩にはお気に入りの場所がある。日当たりや風向きでも位置は変わる。そういう説明ならいくらでもできる。
だが、退去した店の前で、もう一つ変化が起きていた。
建物正面にある、文字の消えた白い看板である。
かなり昔にはビル名か店舗名が入っていたらしいが、何度も塗り直され、今ではほぼ真っ白になっていた。その表面に、薄い灰色の長方形が一つ浮いていた。
雨染みにしては輪郭が直線的だった。ちょうど、看板へ小さなプレートを貼り付け、その周囲だけ汚れたような形をしている。
管理人が雑巾で拭くと消えた。
翌朝には戻っていた。
その灰色の長方形は、退去した区画の上に鳩が増えるほど濃くなった。三羽の日は、まだ白地が透けて見える程度だった。七羽になる頃には輪郭がはっきりし、十羽を越えた頃には、中に文字のような筋まで見えるようになった。
ただし、店の名前ではなかった。
「2-3」
その区画の部屋番号だった。
管理人は看板を外すことにした。
表から何度洗っても数字が戻るなら、金属板そのものが傷んでいるのだろうと考えたのだという。業者が四隅のボルトを外し、長い看板を壁から持ち上げた。
そこで二人とも手を止めた。
数字は、表面にはなかった。
壁側を向いていた裏面に、「2-3」と灰色の汚れで書かれていた。
表からは見えるはずがない。
それだけではなかった。
裏面には、小さな四角と数字がいくつも並んでいた。
「1-2」
「2-1」
「2-3」
「3-2」
その時点で空いていた区画の番号と、すべて一致していた。
しかも、その中に一つだけ、空室ではない番号が混じっていた。
「1-4」
一階で長く営業している店だった。十年以上入っており、退去の話など一度も聞いていない。管理人は念のため店主に確認したが、「移る予定なんかありませんよ」と笑われた。
看板は処分された。
それからしばらく、何も起きなかった。
一か月ほど経った昼、管理人が駅前を歩いていると、例のビルの屋上に鳩が並んでいるのが見えた。
一階のその店の真上だった。
以前は一羽も止まらなかった場所に、四羽いた。
数日後には七羽になった。
店は普通に営業していた。照明もついている。客も入っている。店主本人も毎日そこにいた。
ただ、奇妙なことが増え始めた。
宅配業者が荷物を持ち帰った。伝票には「空室」と書かれていた。
求人を見て訪ねてきた人が、店の前を何度も往復した末、「入口が分からなかった」と連絡してきた。
長年通っていた常連客の一人は、目の前まで来たのに、「あれ、ここってもう閉店したんでしたっけ」と店主に尋ねた。
店主は笑っていたが、管理人は屋上を見た。
十一羽になっていた。
その週末、店主から電話があった。
営業を続ける気ではいるが、少しのあいだ店を閉めたいという。
理由を聞いても、なかなか答えなかった。
しばらく黙ったあと、「朝、鍵を開けて中に入るとね」と言った。
店内の椅子が全部、壁側へ寄せられているのだという。
閉店時には元へ戻す。それでも翌朝になると、客席の中央だけを空けるように、椅子が左右へ分かれている。
防犯カメラには誰も映っていない。
ある朝、その空いた床の中央に、白い粉が一本の線になって落ちていた。
鳥の糞ではなかった。
細かく砕けた古い塗料だった。
店主が掃除していると、その粉の中から、小さな金属片が出てきた。
裏側に「1-4」と刻印されていた。
管理人には、それが何なのかすぐ分かった。
処分したはずの、あの看板の一部だった。
店はその月いっぱい休業した。
店主は退去していない。契約も続いている。荷物も店内に残されている。
けれど、シャッターが閉まった翌朝から、屋上の鳩は急に増えた。
現在もそのビルは駅前にある。
半分ほどの区画には、今もテナントが入っている。
昼間、屋上を見上げれば、鳩が横一列に並んでいることがある。飛び立つものもいるし、新しく降りてくるものもいる。
だから、数そのものに意味があるのかは分からない。
ただ、管理人はもう数えないことにしている。
以前、一度だけ端から順に数えたあと、まだ営業している店の数まで確認してしまったからだ。
足りなかったのは、鳩のほうではなかった。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

