切り口の向こう側

ウラシリ怪談

ある秋の未明、内陸の広い地域を強い地震が襲ったそうです。最も揺れの大きかった場所では震度五を超え、震源の深さは地下およそ四十キロ。津波の心配はないと伝えられましたが、夜が明けても、倒れた家具を片づけたり、建物の安全を確かめたりする人たちの姿があったといいます。

その地震があった地域の、古い集合住宅での出来事です。

建物の三階に住む女性は、揺れが収まると、隣室の高齢の男性を連れて階段へ向かいました。非常灯だけがついた薄暗い踊り場には、すでに何人かの住人が集まっていました。階段の途中には重い防火扉があり、普段は手を離すとゆっくり閉まる仕組みになっていたそうです。

ところが、その夜は違いました。

扉が、大きく開いたまま動かなかったのです。誰かが押さえているわけでもなく、床に物が挟まっている様子もありません。女性が手を離しても、扉は開いたままでした。住人たちは不思議に思いながらも、次々とそこを通り抜けていったといいます。

最後に階段を下りてきたのは、小学生くらいの男の子でした。男の子は扉の前で立ち止まり、しばらく上の方を見ていたそうです。そして、付き添っていた母親に小さな声で言いました。

「もう、手を離してもいいよ」

母親が何のことか尋ねる前に、扉は静かに閉まり始めました。誰も触れていないのに、いつものような速さで、ゆっくりと。

異変が見つかったのは、その翌朝でした。

防火扉の外側に、五つの丸い跡が残っていたそうです。大きさはそれぞれ異なり、いちばん大きなものは、大人の手のひらほどもありました。金属の表面を何かで強く押したように、わずかにへこんでいましたが、そこには奇妙な細い筋が幾重にも重なっていました。

木の年輪に似ていたといいます。

管理人が布で拭いても、跡は消えませんでした。指で触れると、金属のはずなのに、そこだけ乾いた木肌のようなざらつきがあったそうです。扉の周囲に木材は使われておらず、地震で何かがぶつかった形跡もありませんでした。

その頃、遠く離れた東の大きな街では、別の出来事が起きていました。

地震から半日ほどが過ぎた頃、一人の男性が住宅街で空の写真を撮ったそうです。青い空には白い雲がまだらに広がり、その手前には大きく枝を切り詰められた街路樹が立っていました。太い幹から何本もの枝が天へ伸びていますが、その先端は途中で切られ、残された細い枝にだけ、わずかな葉がついていました。

写真の左上には斜めに走る電線があり、右端には建物の壁が写り込んでいました。黒い木の輪郭が青空を大きく分けている、どこにでもありそうな街角の風景でした。

男性は、その写真を短いコメントとともにネットへ投稿しました。

すると、思いがけない反応が集まったそうです。

「これ、地震雲じゃないですか」
「今朝の揺れと関係があるのでは」
「木の上だけ、雲の形が変に見える」

地震雲という言葉は、いつの間にか写真と一緒に広まっていきました。もちろん、その雲と地震との関係が確かめられたわけではありません。ただ、大きな揺れを経験した人たちにとって、その日の空は普段と少し違って見えたのかもしれません。

投稿した男性自身は、雲よりも、切り詰められた木の姿に惹かれてシャッターを切ったのだそうです。

その日の夜、男性のもとへ一通のメッセージが届きました。

送り主は、地震のあった地域に住む女性でした。例の集合住宅で、高齢の男性を避難させた人だったといいます。女性は写真を見て、どうしても確かめたいことがあると書いていました。

「この木は、地震の前からこの形だったのでしょうか」

男性は少し不思議に思いながら、以前から枝を切り詰められた状態だったことを伝えました。少なくとも数か月前には、同じような姿をしていたはずだと。

しばらくして、女性からもう一枚の画像が送られてきました。

防火扉に残された五つの跡の写真でした。

男性は、それを見て言葉を失ったそうです。金属の表面についた丸い模様が、あの街路樹の切り口によく似ていたのです。大きなものと小さなものが不規則に並び、表面には年輪のような筋が刻まれています。

女性は、もう一つ気になることを書き添えていました。

避難していた男の子が、ネットに投稿された木の写真を見た途端、黙り込んでしまったというのです。

母親が理由を尋ねると、男の子は写真の中央付近を指さしたそうです。太い幹から上へ伸び、途中で切られた枝の一本でした。

「あのとき、扉の向こうにいたの、これだった」

何を見たのか詳しく聞いても、男の子はうまく説明できませんでした。ただ、暗い階段で、扉の向こう側に黒くて太いものが何本も見えたのだそうです。それらは扉を押さえるようにじっと動かず、住人が通るたびに、わずかに震えていたといいます。

「みんなが通るまで、ずっと待ってくれてたんだよ」

男の子は、そう話したそうです。

その話を聞いた男性は、翌日、もう一度あの木を見に行きました。

木は写真を撮った時と変わらず、建物の脇で空へ枝を伸ばしていました。風が吹くと、先端に残された小さな葉が揺れます。雲は前日とは違う形になっていて、地震雲だと騒がれた空も、もうどこにもありませんでした。

ただ、枝の切り口に、白いものが付着していました。

最初は鳥のふんか、乾いた樹液かと思ったそうです。しかし、よく見ると、白いものは切り口の表面に薄く入り込み、年輪の溝に沿って残されていました。枝によって量は違いますが、どれも何かに強く押しつけられたあと、剥がれたように見えたといいます。

男性は、手の届く場所にある切り口を指でなぞってみました。

白い粉が、指先に付着しました。

それは木の粉ではありませんでした。細かく、乾いていて、指で擦るとさらさらと崩れます。古い建物の壁を削った時に出る、石膏の粉によく似ていたそうです。

そのことを女性に伝えると、しばらく返事がありませんでした。

やがて、短い文章が届きました。

「扉の跡からも、木の皮のようなものが出てきたそうです」

建物の管理人が、修理のために扉を調べた時のことでした。年輪に似た五つの跡は、表面の汚れではなく、金属そのものが変形してできたものでした。そして、そのへこみの奥には、黒っぽい細かな繊維が入り込んでいたのだそうです。

取り出してみると、薄く剥がれた樹皮のようなものだったといいます。

男性は再び木を見上げました。

切られた枝は、どれも空を向いていました。何かを求めて伸びているようにも、何かが落ちてこないように支えているようにも見えたそうです。男性はそれまで、この木を何度も見ていましたが、枝の形を気にしたことはありませんでした。

それから、男性と女性の間では何度か連絡が交わされました。

幸い、集合住宅の住人は全員避難できており、大きなけがをした人もいなかったそうです。あの男の子も、しばらくは余震を怖がっていたものの、やがて普段の生活へ戻っていったといいます。

ただ、一つだけ変わったことがありました。

男の子は、あの日から、枝を切り詰められた木を見かけると、必ず少し立ち止まるようになったそうです。そして、切り口を見上げながら、小さく頭を下げるのだといいます。

母親が理由を聞いた時、男の子はこう答えたそうです。

「だって、痛かったと思うから」

何が痛かったのかは、聞いても答えなかったといいます。

やがて集合住宅の防火扉は、新しいものに交換されました。外された古い扉は、しばらく管理人室の奥に保管されていたそうです。五つのへこみは消えず、黒い繊維も一部が金属の内側に食い込んだままでした。

一方、遠くの街路樹には、季節が移るにつれて新しい芽が出始めました。切り口の周りにも少しずつ緑が増え、あの黒々とした輪郭は、以前ほど目立たなくなっていったといいます。

白い粉も、いつの間にか見えなくなりました。

それでも写真を撮った男性は、時折、同じ場所から木を見上げることがあるそうです。あの日の写真は今も手元にあります。青空に散った白い雲、斜めに横切る電線、建物の縁、そして何本もの切り詰められた枝。何度見ても、そこに奇妙なものが写っているようには見えません。

ただ、最近になって、もう一つだけ気になる話が届いたといいます。

古い防火扉を処分するため、管理人が保管場所から運び出そうとした時のことでした。

金属の扉は、以前よりも少し軽くなっていたそうです。

持ち上げて確かめると、五つあった年輪のようなへこみのうち、一つだけが消えていました。へこんでいた部分が平らに戻り、そこにあった黒い繊維もなくなっていたといいます。

その代わり、扉の下端に、ごく細い傷が一本増えていました。

何かを引きずったような傷ではありません。

内側から外側へ、ほんの数センチだけ伸びた、木目のような筋だったそうです。

管理人は、それを見ても特に何もしませんでした。扉は予定どおり運び出され、その後どうなったのかは分かっていません。

けれど、あの街路樹には、今も一か所だけ、葉のつかない切り口が残されているそうです。

ほかの枝には新しい芽が出ているのに、そこだけは、切られた時と同じ黒い断面を空へ向けたままなのだといいます。

その切り口が、以前よりわずかに丸くなっていることに、男性は気づいているそうです。

まるで、何かを強く押さえていた指が、ようやく力を抜き始めたように。

ただ……。

その枝が、今もどこか遠くの何かに触れているのか。

それとも、もう触れる必要がなくなったのか。

確かめる方法は、今のところないそうです。

あの写真が撮られた日の空についても、結局、特別なことは何も分かっていません。

ただ、遠い町で強い揺れがあった夜、何人もの住人が通り抜けるまで閉じなかった扉と、半日後の空に伸びていた、切られた枝のことだけが残されています。

……そんな話を聞きました。

この怪談は、以下の記事をきっかけに生成されたフィクションです。

愛知県西部などで最大震度5強の地震

地震情報詳細 | 日テレ 気象・防災サイト
災害時や緊急時における統合防災情報サイト。気象警報や地震、避難情報、開設避難所など、各種案内を確認できます。お住まいの地域の情報収集にお役立てください。
枝のない場所
強く剪定された街路樹のそばで、ビニール袋が何もない空中に引っかかっていた。そこに枝はない。少なくとも、目には見えなかった。

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