水の届かない底

写真怪談

十月の終わり、小学校のプールは夏とは別の場所のように静かだった。水泳の授業はとうに終わっていたが、設備点検の日までは水を残すことになっており、水面は少し緑がかっていた。向かいの校舎の窓が鈍く映り、その中に、色の褪せたボールがひとつ浮いていた。

プールの設備を見に来た作業員は、最初、そのボールを校庭から飛び込んだものだと思った。風のある日なら珍しくない。点検の邪魔になるので、長い柄のついた網を伸ばし、ボールを手前へ寄せた。

網ですくい上げた時、妙なことに気づいた。

ボールが濡れていなかった。

表面には泥も藻もついておらず、水滴さえなかった。十月末の冷たい水に浮かんでいたのだから、少なくとも下半分には水の跡が残るはずだった。それなのに触れてみると、日陰の物置から出したばかりのゴムボールのように、さらさらと乾いていた。

網のほうはきちんと濡れていた。柄から水が垂れ、作業員の袖にも染みができている。ただ、ボールを受けていた網目の中央だけが、丸く乾いていた。水気を吸い取ったというより、そこだけ最初から水に触れていなかったように見えた。

撥水加工でもされているのだろうと考え、作業員はボールをプールサイドへ置いた。念のため、ホースで直接水をかけてみた。勢いよく当たった水は表面で弾けたが、普通の撥水とは少し違っていた。

水滴が付かなかったのである。水はボールに当たる直前で細かく裂け、左右へ流れ落ちていた。何度繰り返しても同じだった。ボールの真下だけはプールサイドも濡れず、薄い円形の乾いた跡が残った。

作業員は気味が悪くなり、校内の用具置き場へボールを運んだ。翌朝までに処分方法を確認することにして、床に置かず、プラスチック製の箱へ入れておいた。外は夜から雨になり、濡れた清掃道具を出し入れしたため、翌朝の用具置き場はかなり湿っていた。

箱の内側には細かな水滴がびっしり付いていた。

ただし、ボールの周囲だけには水滴がなかった。透明な箱の底から壁へかけて、球を中心に直径五十センチほどの範囲が完全に乾いていた。境目は妙にはっきりしており、水滴が途中で切り取られたような円になっていた。

作業員はゴム手袋をしてボールを取り出した。空になった箱へ霧吹きで水をかけると、さっきまでボールがあった場所だけ、水が細かな玉になって転がっていった。箱を逆さにすると、その水滴は乾いた部分を避けるように縁へ流れたという。

その日のうちに、ボールは廃棄物として校外へ運ばれた。誰のものか分からず、校名や児童の名前も書かれていなかった。作業員たちは、これで終わったと思った。

数日後、冬に向けた清掃のため、プールの水を抜く作業が始まった。緑がかった水位が少しずつ下がり、壁面には濡れた跡と薄い藻が残った。底が見える程度まで減ったところで、作業員の一人が中央付近を指さした。

底に、丸い色の違う部分があった。

水が完全になくなるまで待って確認すると、それは汚れではなかった。周囲の床面は水を吸って濃い青色になり、足を置けば靴底に水が付いた。だが、その円の内側だけは白っぽく乾き、指で触れると粉を吹いたような感触がした。

直径は三十センチほどだった。位置を見て、最初の作業員はすぐに思い出した。数日前、あのボールが浮いていた場所のほぼ真下だった。

バケツで水をかけてみた。円の上へ落ちた水は一瞬広がったが、すぐ中央から外側へ押し出され、縁に沿って細い輪を作った。何度水を流しても、数秒後には円の内側だけが乾いて見えた。

表面に油でも染み込んでいるのではないかと考え、補修業者が呼ばれた。洗剤で洗い、表面を削り、古い塗膜を落とした。それでも同じだった。削った直後のコンクリートへ水を垂らしても、円の中には染み込まなかった。

さらに数ミリ削った。

その下も乾いていた。

業者は小さなドリルで円の中央を掘った。周囲のコンクリートは湿り気を含み、削りかすが灰色に固まった。ところが円の内側から出てくる粉だけは真っ白で、指でつまむとさらさら崩れた。深さを五センチほどまで進めても状態は変わらなかったという。

そこで作業は止められた。原因を確かめるためにプールの底を深く掘るわけにもいかず、円の部分だけを広めに削って補修材を入れることになった。ところが塗ったばかりの補修材も、中央部分ではなかなか定着しなかった。水分だけが外側へ逃げ、粉っぽい材料が後に残った。

最終的には円より大きな範囲を削り、新しい下地を作って塗装し直した。見た目には周囲と変わらなくなった。冬のあいだ何度か雨が降ったが、上から見ただけでは異常は分からなかったそうだ。

翌年の初夏、プールには再び水が張られた。設備検査でも異常はなく、水泳の授業も予定どおり始まった。あの円について知っている職員は数人しかおらず、児童には何も伝えられなかった。

夏が終わり、再びプールが使われなくなった。

十月の終わり、前年と同じ清掃作業が行われ、水が抜かれた。補修した底面は全体に濡れていたが、水位が最後の数センチになった頃、作業員は中央付近に白っぽいものが浮かび始めるのを見た。

前年に補修した、あの円だった。

上にはまだ水が残っていた。円の周囲では薄い水が光り、風が吹けば細かな波も立っている。それなのに円の内側だけは、水の下にあるにもかかわらず乾いて見えた。水はそこへ流れ込まず、見えない縁でもあるように薄く盛り上がっていたという。

完全に排水されたあと、作業員は近づかなかった。

あのボールは、もう学校にはない。廃棄を担当した業者にも確認したが、特に変わったものは残っていなかったという。それでもプールの底には今も、直径三十センチほどの場所だけが、周囲より先に乾く。

雨の翌日でも同じらしい。

そして十月の終わりになると、その円は少しだけ大きくなっている。

昨年測った時より、今年は二センチほど広かったそうだ。

この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

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