その駅は、二本の線路を挟んでホームが向かい合う、ごく普通の地上駅だった。駅舎からホームへ渡る通路は線路より高い位置にあり、途中から二番線全体を見下ろすことができた。黄色い点字ブロック、屋根を支える白い柱、線路脇に並ぶ機器箱。その向こうには低い住宅と山並みまで見える。昼間なら、ホームの端から端までほとんど死角がない。
駅の清掃を請け負っていた作業員が妙な人影を見るようになったのは、秋の初めだった。午後の清掃を終え、通路から二番線を見下ろした時、ホームの中央付近に一人の男が立っていた。灰色とも紺色ともつかない服を着て、黄色い点字ブロックのすぐ内側にいる。顔は下を向いているらしく、上からではよく見えなかった。
電車を待っているだけに見えた。ただ、その日は次の列車まで二十分以上あった。作業員が階段を下り、二番線へ回ったが、ホームには誰もいなかった。反対側へ移動したのだろうと思ったものの、改札へ続く階段にも人の姿はない。小さな駅なので、ホームから出れば駅員室の前を通ることになる。駅員に聞いてみても、今しがた改札を出た客はいないという。
作業員は気にせず仕事に戻った。だが翌日、同じ時刻に通路を渡ると、その男がまた立っていた。場所まで同じだった。二番線の「2」と書かれた表示板より少し手前。黄色い点字ブロックから半歩ほど離れ、線路へ身体を向けている。
今度は作業員も、その場でしばらく見ていた。男は動かなかった。風でホームの端に落ちた紙片が転がっても、服の裾さえ揺れない。やがて作業員は、もっと妙なことに気づいた。
その日は薄い雲が出ていたものの、時折、日が差していた。ホームの柱も、屋根も、線路脇の設備も、同じ方向へ淡い影を落としている。男だけ、影がなかった。正確には、足元に黒いものはあった。だがそれは身体から伸びる影ではなく、靴の下に小さな染みが二つあるように見えた。
作業員は階段へ向かった。一度も目を離さなかったつもりだった。それでも二番線へ降りた時には、男はいなかった。代わりに、足元が異様に冷たかった。九月の午後だった。ホームのコンクリートは日差しを受けて温まっている。黄色い点字ブロックも、手を触れればぬるいほどだった。ところが、男が立っていた場所だけが冷えていた。
靴底越しにも分かった。作業員がしゃがんで触れると、指先が痛むほどだった。幅は、人の両足を並べたくらいしかない。それも左右に二か所。丸ではなかった。つま先から踵まで、人間の靴底とほぼ同じ形に冷えていた。
駅員を呼び、非接触式の温度計で測ってもらった。周囲の床面は二十六度前後。右足の形をした部分は十一度。左は九度だった。水に濡れているわけでも、床下に配管が通っているわけでもない。十分ほどすると温度はゆっくり戻り、跡は分からなくなった。
翌日も男は現れた。その次の日もいた。おかしかったのは、少しずつ場所が変わっていることだった。最初は点字ブロックから半歩ほど離れていた。翌日は、ほんの少し後ろ。その翌日はさらに十センチほど後ろへ下がっていた。線路から遠ざかっている。
ホームの中央へ向かっているのではない。男は毎日、わずかずつ、通路へ上がる階段の方向へ近づいていた。駅員たちも話を聞き、決まった時間に二番線を確認するようになった。だがホームに立って待っていると、何も現れない。人影が見えるのは、線路より高い位置から見下ろした時だけだった。通路へ上がればいる。階段を下りると消える。
試しに一人が上から人影を見ながら携帯電話で駅員へ連絡し、もう一人が真下のホームへ立った。
「今、そっちから三メートルくらい右にいる」
上から見ていた駅員が言った。ホーム側の駅員は何もない空間を見回し、そこへ手を伸ばした瞬間、悲鳴を上げた。手首まで冷水へ突っ込んだような冷たさだったという。すぐに腕を引いたが、手の甲には白い斑点が浮いていた。数分で消えたものの、その晩まで指先の感覚が戻らなかった。
それ以来、誰も人影へ近づかなくなった。男は毎日、階段へ近づいた。一日に十センチ程度だった。雨の日もいた。雨粒がホームを濡らしているのに、上から見る男の輪郭だけは濡れて見えない。むしろ雨の日のほうが、形がはっきりした。頭。肩。垂らした腕。やや前へ曲がった背中。そして足元の二つの黒い染み。
十月に入るころには、階段まで残り二メートルほどになっていた。駅では床下の設備まで調べた。異常はなかった。ただ、点検のためホーム下へ入った保守員が、一か所だけ妙なものを見つけた。コンクリートの裏側に、水滴が付いていた。
地上から雨が染み込んだ形ではない。乾いた天井面に、左右二つ、靴底ほどの範囲だけ結露していた。人影が前日に立っていた場所の、ちょうど真下だった。翌日、その水滴は消えていた。代わりに、十センチほど階段側の天井に新しい水滴が浮いていた。その次の日は、さらに十センチ。人影の移動と同じだった。
保守員は床下の天井へ油性ペンで日付を書いた。翌朝、その印の横に新しい結露ができた。毎日確認するたび、濡れた二つの跡が階段の方向へ進んだ。人の足跡とは違う。一歩ずつではない。両足を揃えたまま、その場所だけが滑るように移動している。
十月半ば、人影は階段の最下段の前まで来た。その日の午後、上から見ていた駅員は、初めて男の顔が少し見えたという。男は線路を向いていなかった。階段を見ていた。顔を上げているわけではない。それでも身体の向きだけは明らかに変わっていた。
翌日、人影はホームから消えた。駅員たちは安心しなかった。階段の一段目が冷えていたからだ。二段目。三段目。日を追うごとに、冷たい場所は階段を上がってきた。人影そのものは、もうどこからも見えなかった。
十一月の朝、通路の清掃に来た作業員が、手すりに触れて手を引っ込めた。金属が白く曇っていた。霜だった。まだ気温は十度以上あった。霜は手すりの一部分にだけ付き、そこから床へ向かって細い水滴が垂れていた。真下には、濡れた靴底の形が二つ並んでいた。
その場所は、最初に作業員が二番線の人影を見下ろした場所だった。
駅ではその後、通路の一部を立入禁止にした。床材も交換した。手すりも新しいものになった。二番線で異常な低温が測定されることは、今のところなくなっている。ただ、床下を点検した保守員が残した記録だけは処分されていない。
日付と温度を記した一覧の最後に、一行だけ、測定場所の書かれていない記録がある。
《11月XX日 6.4℃》
その横には、短くこう書かれている。
《ホーム上ではない》
誰が書いたのかは分かっている。最初に人影を見た清掃作業員だという。ただ、その作業員はその日を最後に担当から外れた。体調を崩したわけではない。本人が、あの駅にはもう入りたくないと言ったためだった。
理由を尋ねられても、しばらく答えなかった。最後に一度だけ、駅員へこう説明したという。通路を出て帰ろうとした時、自分の足元だけが急に冷たくなった。恐ろしくなって道路まで走った。そこまで話してから、作業員は靴を脱いで見せた。
左右の靴底が濡れていた。雨は降っていなかった。その水は、家に帰っても乾かなかったという。数日後、新しい靴に替えた。古い靴は捨てた。それからは何も起きていないらしい。
ただ、駅の通路では今でも、ときどき清掃後の乾いた床に二つだけ濡れた跡が見つかる。足跡のように連続してはいない。左右二つが、いつも揃っている。
前回より少しだけ、改札側に近い場所に。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。


