海から少し離れた町で、一人暮らしの女性が夕食を取っていた夜のことです。
食卓には味噌汁と焼いた魚、それから水の入ったコップが一つ。テレビでは、ある発電施設をめぐるニュースが流れていました。
再稼働のために提出されていた地震波のデータに不適切な扱いが見つかり、二基について申請をいったん取り下げることになった――そんな内容だったといいます。
問題のあるデータは、長いあいだ繰り返し提出されていたとも伝えられていました。
女性は途中でテレビを消しました。亡くなった父親が、長く地震に関わる計測の仕事をしていたからです。
父親は詳しい仕事の話を家でする人ではありませんでした。ただ、小学生だった娘が学校で地震計について習った日だけ、紙に一本の波線を描いて見せたことがあったそうです。
「線は、きれいにしてやらなくていいんだよ」
意味を尋ねると、父親は、
「地面がこう言ったんだから、こう書いておけばいい」
と、それだけ答えたといいます。
父親が亡くなったあと、机の引き出しも仕事道具も家族で片づけました。
古い定規や筆記具はありましたが、職場の資料らしいものは一枚も残されていませんでした。
ニュースを消してしばらくしたころ、食卓の水面に細かな波が立ちました。地震かと思って立ち上がりましたが、吊り下げた照明も、棚の扉も、窓ガラスも動いていません。
水だけが揺れていました。
中心から十一本ほど、細い輪が広がっていたそうです。
やがて波はコップの縁へ届き、消えました。そのあとでした。
二本だけ、戻ってきたといいます。
コップの縁から中央へ向かって、二つの小さな輪がゆっくり縮んでいく。まるで、一度外へ出たものが、通ってきた場所を確かめながら帰ってくるように……。
二つの輪が中央で重なると、水面は何事もなかったように静かになりました。
女性はその夜、水を捨てました。
翌朝、コップの底に薄い筋が二本残っていたそうです。水垢ではありません。
爪で触れると、ガラスの内側がほんのわずかに盛り上がっていました。傷なら凹むはずなのに、そこだけ細い線状に膨らんでいる。
二本の線は真っ直ぐではなく、左右へ細かく震えながら進む、地震計の記録のような形でした。
女性はコップを箱へしまいました。その日の夕方、父親の姉が訪ねてきました。
遺品の中から古い写真が一枚出てきたので、持ってきてくれたのだそうです。
まだ幼かった女性が食卓で宿題をしている写真で、向かいには父親が座っていました。
家の人の仕事について聞く宿題をしていた頃のもので、父親がノートへ何本もの波線を描き、母親に二人そろって叱られた。その程度の、何でもない日の写真でした。
ただ、写真の中の父親はこちらを見ていませんでした。
テーブルの上を見ています。その視線の先には、水の入ったコップが置かれていました。
伯母は写真の端を指して、
「これ、お父さんらしいね」
と言いました。
父親の右手です。人差し指と中指だけをテーブルにつけていました。
伯母によれば、父親には昔からその癖がありました。
大きな揺れがあったあと、帰宅すると、しばらく食卓へ二本の指を置く。
それから小さく、
「もう帰ったな」
と言う。
家族が意味を尋ねても、説明したことはなかったといいます。
その晩、女性は箱から例のコップを出しました。もう一度だけ水を注ぎ、父親の写真を食卓に置きました。
何分待っても、水には何も起きません。
ところが写真の中で父親が指を置いている場所をコップのほうへ向けた時、今度は食卓そのものが、ごく小さく震えました。
音はありません。手のひらを置かなければ分からないほどの振動が一度あり、少し間を置いて、もう一度。
二度目は最初より弱かったそうです。
それから、テーブルの端から中央へ、何かがゆっくり近づいてきました。
見えるものではありません。ただ木目が一本ずつ、ほんのわずかに盛り上がっていく。
端から中央へ。
中央から父親の写真のほうへ。
最後に、写真の中で父親が指を置いている場所まで届きました。
そこで止まりました。
女性が写真を持ち上げると、食卓には細い盛り上がりが二本残っていました。やはり波のような形です。
ただし、二本とも途中で切れていました。
父親が座っていた場所の手前で終わっていたのです。
女性は、昔の父親の言葉を思い出したそうです。
――地面がこう言ったんだから、こう書いておけばいい。
それで、削ったり磨いたりはしませんでした。食卓も買い替えず、そのまま使うことにしたといいます。
その後、二基について出されていた申請が正式に取り下げられたという報道を見た夜、女性はもう一度、水を置いてみました。
今度は水面に何も起きませんでした。十一本の輪も現れません。
ただ翌朝、古い写真だけが食卓の反対側へ移っていました。
父親が座っていた側ではなく、幼い娘が座っていた側です。
写真の中では、父親の二本の指が相変わらず食卓に触れています。
けれど、よく見ると、二本の指のすぐ下に以前はなかった小さな波線が写っていました。
線は父親のほうへ向かってはいません。写真の端へ向かい、途中で途切れています。
その先には、今その家で一人暮らしをしている娘の席があります。
女性は、それ以来、食卓に水を一杯だけ置いて眠るそうです。
何かを測るためではありません。
朝になって、水面が平らであることを確かめるためだといいます。
ただ、父親を思い出す時期が近づくと……コップの底に残った二本の線のうち、一本だけが、ほんの少し長くなっているように見えるそうです。
もう一本が、どこまで戻れば終わるのか。
女性は測っていません。
父親ならたぶん、測らず、そのままにしたでしょうから……そんな話を聞きました。
この怪談は、以下の記事をきっかけに生成されたフィクションです。
Chubu says its president to resign, nuclear restart application withdrawn over data scandal
reuters.com

