箱の底に残る空

ウラシリ怪談

秋の終わりごろ、丘の上にある動物園で、二羽のコウノトリを別の施設へ移すことが決まったそうです。どちらもメスで、生まれた時期の異なる二羽でした。移動は冬の初めに予定されていました。園では四十八羽のコウノトリを飼育しており、二羽の移動は、将来にわたってこの鳥たちを守るための取り組みの一環だったといいます。

担当の飼育員は、長く園に勤めてきた女性でした。鳥たちを一羽ずつ見分けることができ、歩き方や餌の取り方にも、それぞれ癖があるのを知っていたそうです。今回移る二羽についても、特に心配はしていませんでした。ただ、長く見慣れた姿がいなくなると思うと、飼育場の景色が少し変わるような気がしていたといいます。

異変が起きたのは、移動用の木箱を準備し始めた頃でした。

その日、飼育員は倉庫から二つの木箱を出し、床に並べて状態を確認していました。鳥が落ち着いて過ごせるよう、箱の内側は暗く、余計な光が入らない造りになっています。ところが、一つ目の箱の底を覗き込んだ時、そこに淡い青色が見えたそうです。

最初は、塗料でも付着しているのかと思ったといいます。しかし、よく見ると、その青色の奥を白い雲が流れていました。木の板に、空が映っていたのです。

天井の照明が反射しているわけではありません。窓は背後に一つあるだけで、箱の底に外の景色が映るはずはありませんでした。指先で触れてみると、そこには普通の木目があり、ざらついた感触も変わりません。それでも、指の下では雲がゆっくりと流れていたそうです。

飼育員は箱を持ち上げ、裏返してみました。底板の裏側には何もありません。ところが箱を元の向きへ戻すと、やはり内側にだけ、小さな青空が広がっていました。しかも、その空には、外で吹いている風とは反対の方向へ流れる雲があったといいます。

もう一つの箱を確かめると、そちらにも空がありました。

ただし、二つ目は曇り空だったそうです。薄い灰色の雲が重なり、ときおり、その隙間から白い光が差していました。二つの箱は同じ倉庫に置かれ、同じ照明の下にあります。それなのに、箱の底には、それぞれ違う天気が広がっていたのです。

翌朝、飼育員は同僚にそのことを話しました。同僚も二つの箱を覗き込みましたが、何も言わず、しばらくそこにしゃがんでいたといいます。

「……これ、どこの空なんでしょうね」

それが、二人の間で交わされた最初の言葉だったそうです。

奇妙なことに、箱の中の空は、日が経つにつれて少しずつ変化しました。晴れていたほうには小さな雲が増え、曇っていたほうには、朝焼けのような赤みが差すようになったのです。昼間に覗いても、夜明けの色をしていることがありました。倉庫を暗くしても、その色は消えなかったといいます。

ある夕方、飼育員は箱を開けたまま、移動予定の二羽がいる飼育場へ向かいました。鳥たちは普段と変わらず、長い脚でゆっくりと歩いていたそうです。けれど、いつもなら餌の準備に気づいて近寄ってくる一羽が、その日は奥の扉のほうを向いていました。もう一羽も、同じ方向を見ていたといいます。

その扉の向こうに、例の木箱が置かれていました。

鳥たちは、しばらく動かなかったそうです。二羽とも首を少し伸ばし、何かに耳を澄ませるような姿勢を取っていました。やがて、片方が嘴を小さく打ち鳴らしました。

かた、かた。

もう片方も、それに応じるように嘴を鳴らしました。

かた、かた。

そして、その音が止んだあと、倉庫のほうから、もう一度だけ同じ音が聞こえたそうです。

かた。

飼育員は倉庫へ戻りました。木箱は二つとも開いたままで、周囲には誰もいません。けれど、晴れていたほうの箱の底に、一つだけ変化がありました。

白い雲が、鳥の翼のような形に広がっていたのです。

それは風に流される普通の雲とは違い、ゆっくりと形を変えながら、まるで大きな翼を畳むように小さくなっていったといいます。やがて雲は消え、青空だけが残りました。

飼育員は、その光景を誰にも詳しく話さなかったそうです。ただ、それから毎朝、木箱を確認するようになりました。

不思議なことに、箱の中の空は、移動の日が近づくほど穏やかになっていきました。晴れていたほうは雲一つない青空になり、曇っていたほうにも、薄い光が差し始めました。二つの空の色が、少しずつ似てきたのです。

旅立ちが間近に迫った頃には、どちらの箱を覗いても、同じような淡い青色が見えるようになっていたといいます。

そして、旅立ちの日。

その朝、園の上空には厚い雲が広がっていました。冬らしい冷たい風が吹き、飼育場の屋根には、夜のうちに降った雨の跡が残っていたそうです。

移動の準備は静かに進められました。二羽はそれぞれの木箱に入り、係員たちが慎重に蓋を閉めました。鳥が驚かないよう、声を抑え、足音にも気を配っていたといいます。

最後の箱の蓋を閉める直前、担当の女性は、もう一度だけ底を覗きました。

そこには、青い空がありました。

ただ、いつもと違うものが一つだけ見えたそうです。

小さな白い羽根が、空の中をゆっくりと落ちていたのです。

羽根は木箱の底へ落ちているのではありませんでした。青い空の、ずっと向こうから、こちらへ向かって降りてくるように見えたといいます。やがて羽根は雲の向こうへ消えました。

女性はそのまま蓋を閉めました。

二羽を乗せた車が園を出たあと、飼育員たちは空になった飼育場を片づけました。枝や敷材を整理し、汚れた床を洗い、次に使う時まで清潔な状態を保つための作業です。いつもなら数人で手早く終える仕事でしたが、その日は誰も急がなかったといいます。

女性は、二羽がよく休んでいた場所の前で、しばらく立ち止まりました。

そこには、鳥がいなくなったことを示すものが何もありませんでした。敷材は片づけられ、羽根も拾われ、床はきれいに洗われています。ただ、長く見慣れた二羽の姿だけが、そこにはありませんでした。

その時、女性は床の一角に、薄い青色が残っていることに気づいたそうです。

よく見ると、青色は二か所にありました。

ちょうど、二羽がよく立っていた場所です。

女性は膝をつき、そっと指先を伸ばしました。床は乾いており、塗料のようなものも付いていません。それなのに、そこだけが淡く青く、奥行きのある空のように見えたといいます。

翌日になっても、その青色は消えませんでした。

掃除をしても、照明を変えても、そこには同じ色がありました。二つの青い部分は、木箱の底で見た空と同じくらいの大きさだったそうです。

ただ、今度は雲がありませんでした。

二つの空は、どちらも静かに晴れていました。

女性は、それを見てから、もう一度だけ倉庫へ向かったそうです。木箱が置かれていた床には、何も残っていませんでした。そこは普段どおりの灰色の床で、青い色も、雲の形も、見当たらなかったといいます。

その夜、園の見回りをしていた係員が、空になった飼育場の前で足を止めたそうです。

屋根の下から、かすかな音が聞こえました。

かた、かた。

二度、嘴を打ち鳴らすような音でした。

係員が中を覗くと、誰もいません。鳥の姿も、動くものもありません。ただ、床に残った二つの青い部分のうち、一つだけに、小さな白い雲が浮かんでいたといいます。

その雲は、ゆっくりと隣の青空へ移っていきました。

そして、二つの空の境目で、ほんの一瞬だけ、一枚の大きな翼のような形になったそうです。

翌朝、床の青色は、少し薄くなっていました。

数日後には、ほとんど見えなくなったといいます。それでも、最初に気づいた女性だけは、掃除のたびにその場所を確かめていたそうです。

しばらく経った頃、床の青色は完全に消えました。

その代わり、二羽がよく立っていた場所の間に、小さな白い羽根が一枚、落ちていたといいます。

女性はそれを拾おうとして、手を止めました。

羽根は床に落ちているのではありませんでした。

床からほんの数センチほど浮いた場所に、何にも支えられず、静かに留まっていたのです。

窓を開けても、風を送っても、羽根は動かなかったそうです。

その日の夕方、女性がもう一度見に行くと、羽根は消えていました。

床には何も残っていません。

ただ、羽根が浮いていた場所の真下だけ、細長い木目のような筋が白くなっていました。床の表面を削っても、その白さは消えなかったといいます。

それから、その飼育場では、時折、空の色が少し違って見えることがあるそうです。

晴れた日でも、屋根の下の一角だけが曇り空のように見えたり、曇った日には、床のどこかに淡い青色が浮かんだりするのだとか。

誰も、それを詳しく調べようとはしませんでした。

ただ、二羽がいなくなってからも、担当の女性は毎朝、空になった飼育場へ向かうそうです。

そして、入口の前で一度だけ立ち止まり、静かに頭を下げるといいます。

誰に向かってそうしているのか、尋ねた人はいません。

ある朝、見回りをしていた若い係員が、女性の背後を通りかかったことがあったそうです。

その時、飼育場の奥から、かすかに嘴を打ち鳴らす音が聞こえました。

かた、かた。

若い係員は思わず足を止めました。

けれど女性は振り返らず、いつものように頭を下げて、その場を離れたといいます。

あとで聞くと、女性はこう答えたそうです。

「二羽とも、無事に着いたのでしょうね」

それが何を意味していたのか、若い係員には分からなかったそうです。

ただ、その日の夕方、空になった飼育場の床に、また小さな青い色が浮かんでいるのを見つけたといいます。

今度は二つではなく、一つだけでした。

その青色は、夜になっても消えなかったそうです。

そして、翌朝。

その場所に、細い白い羽根が一枚、静かに落ちていたといいます。

羽根の先は、まるで遠くを指し示すように、東の空を向いていました。

それが、どこから来たものなのか。

誰のために残されたものなのか。

今も確かめられていないそうです。

ただ、あの飼育場では、時折、誰もいないはずの場所から、嘴を打ち鳴らす音が聞こえるのだといいます。

その音は、いつも二度だけ。

かた、かた。

まるで、どこか遠くから返事が届いたように……そんな話を聞きました。

この怪談は、以下の記事をきっかけに生成されたフィクションです。

ニホンコウノトリ2羽を移動します

ニホンコウノトリ2羽を移動します | 多摩動物公園
ブリーディングローンにより、ニホンコウノトリのメス2羽を東武動物公園へ移動することになりました。

この怪談の怖さを評価する

星を押して、怖さを5段階で評価してください。

平均評価 0 / 5. 読者の怖さ評価 0

まだ評価はありません。最初の評価をお願いします。

 

タイトルとURLをコピーしました