銘板を布で覆った瞬間、古木は消えた。
倒れたのでも、霞んだのでもない。
幾筋にも分かれた巨大な幹も、空を塞いでいた濃い枝葉も、初めから存在しなかったように消え失せた。あとに残ったのは、何もない空間へ斜めに寄りかかる数本の支柱だけだった。
城址公園で樹木の管理をしていた相馬は、その古木の銘板を塗り直す作業に立ち会っていた。
古木は天然記念物に指定されている。根元を踏み固めないよう柵が設けられ、剪定した枝や剥がれた樹皮まで、すべて記録して保管する決まりになっていた。
作業手順書には、奇妙な注意書きがあった。
「銘板を清掃する際は、名称を一文字ずつ露出させたまま行うこと」
理由は記載されていなかった。
相馬は昔の塗装方法の名残だと思っていた。だが作業員の藤井は、一文字ずつ養生するのは面倒だと言い、銘板全体へ白い布を掛けた。
その途端だった。
古木のあった場所は明るくならなかった。
幹も葉も消えているのに、そこだけ光が通らない。木の形をした巨大な空白が、周囲の明るさを押し退けて立っていた。
風も、その場所を避けていた。
落ち葉を一枚投げ込むと、見えない幹へ触れた位置で音もなく消えた。数秒後、反対側の地面へ落ちたが、葉は茶色く乾き、縁が粉のように崩れていた。
藤井が慌てて布を剥がした。
古木は何の音も立てず、元の場所へ戻った。
ただし、幹に立て掛けていた刷毛が半分ほど樹皮の中へ沈んでいた。
抜こうとしても動かなかった。木の柄には樹皮と同じ深い皺が走り、枝分かれするように細い筋が広がっていた。刷毛の先だけが外へ突き出し、まだ新しい塗料を含んでいた。
相馬たちは、その件を報告しなかった。
説明できる言葉がなかったからだ。
数か月後、古くなった銘板を交換することになった。
今度は名称を書いた仮の紙を幹へ貼り、文字が途切れないよう準備した。藤井は脚立に乗り、相馬は新しい銘板を抱えて待った。
古い銘板を外したときも、木は消えなかった。
仮の紙には、名称が確かに書かれていた。
ところが風もないのに、紙の右端が持ち上がった。
端の一文字だけが幹から離れた。
古木の太い幹の一本が消えた。
その部分を支えていた柱が、何もない空間へ倒れ込む。藤井は脚立の上で体勢を崩し、消えた幹のあった場所へ肩から入り込んだ。
姿が見えなくなったのは、肩から先だけだった。
藤井は驚いて後ろへ下がろうとした。しかし脚立を一段降りるたび、見えない部分が胸、腰へと広がっていく。空白の中へ吸い込まれているのではない。
古木の輪郭のほうが、藤井の身体に合わせて膨らんでいた。
相馬は紙を押さえ、浮いた一文字を幹へ戻した。
消えていた幹が現れた。
脚立も戻った。
藤井だけがいなかった。
地面にはヘルメットと腰袋が落ちていた。脚立の最上段には、藤井が使っていた鍵が一つ置かれていた。
翌日、職員名簿から藤井の名前は消えていた。
同僚たちは、昨日の作業には相馬一人しか参加していないと言った。藤井の机も、更衣室のロッカーも存在しなかった。
けれど、古木の幹には鍵が残っていた。
樹皮の下へ完全に埋まり、金属の輪だけが木目の中に透けて見えた。鍵には藤井の職員番号が刻まれていた。
新しい銘板にも、見覚えのない一行が増えていた。
「管理補助者 一名」
文字を削ろうとすると、古木の枝が大きく軋んだ。
それ以来、銘板は透明な板で覆われ、名称が隠れないよう毎日確認されている。
相馬は管理の仕事を辞めた。
それでも月に一度だけ、公園の外から銘板を見に行くという。
「管理補助者 一名」の下に、空白の行があるからだ。
最初は何も書かれていなかった。
やがて木目の奥から、薄い線が一画ずつ浮かび始めた。
現在は、相馬の姓と同じ形になるまで、あと一画だけ足りない。
その一画が現れる日は、決まって銘板の名称が、端から一文字だけ薄くなるのだという。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

