六万軒目の搭乗口

ウラシリ怪談

六月三日の昼すぎ、海沿いの空港では、風の音が建物の内側からしていたそうです。

その日は、強い熱帯低気圧が東京の南およそ百五十キロを北東へ進んでいて、最大風速は毎秒二十五メートル、中心気圧は九百八十五ヘクトパスカルと発表されていました。出発案内の画面には、欠航の赤い文字が横に並び、国際線も国内線も合わせて九百便近くが止まったといいます。

ロビーには、予定をなくした人たちが濡れた靴音を残していました。

ある男性は、夕方の便が消えたので、航空会社の窓口で振替の整理券を受け取ったそうです。番号は「59999」。それ自体は、混雑した日の冗談のようにも見えました。

けれど、隣の発券機から、誰も触れていないのに、もう一枚だけ紙が滑り出ました。

「60000」

印字は薄く、行き先の欄は空白でした。搭乗口の欄には、数字ではなく「停電」とだけありました。

係員は紙を回収しようとしましたが、指でつまむと、表面が乾いた畳のようにざらついたそうです。濡れてもいないのに、紙の端から細い水が落ちました。床に落ちた水は広がらず、まるで家の間取り図のように、四角く分かれて止まりました。

その頃、空港の外では、街のいくつかの地区で電気が消えていたそうです。報道では、停電した世帯はおよそ六万軒と伝えられていました。

男性はその数字を見た時、整理券を捨てられなくなったといいます。

しばらくして、館内放送が入りました。欠航便の案内でも、避難の呼びかけでもありませんでした。

「六万軒目のお客様は、搭乗口へお進みください」

声は落ち着いていました。女性とも男性ともつかず、ところどころ風に削られて、語尾だけが長く残ったそうです。

周囲の人たちは誰も反応しませんでした。けれど、男性の整理券だけが、小さく震えていました。紙の裏には、いつの間にか、知らない住宅地の番地がびっしり印字されていました。八つの県名が混じり、いくつかは泥で擦ったように読めなくなっていました。

最後の一行には、男性の自宅の住所がありました。

その住所は、停電区域ではなかったそうです。

男性は空港の外へ出ようとしました。自動扉の向こうは、雨で白く曇っていました。ところが扉の手前に、古い木の玄関が一つだけ立っていました。空港にあるはずのない、引き戸の玄関です。傘立てには、見覚えのある黒い傘が一本入っていました。

彼が手を伸ばすと、背後の案内表示が一斉に変わりました。

欠航。遅延。搭乗中。

そのすべての行き先が、同じ言葉になっていたそうです。

「帰宅済」

男性は玄関を開けませんでした。ただ、整理券を床に置いて、その場を離れたといいます。

翌朝、空港の清掃員が、搭乗口の近くで濡れた紙片を見つけました。番号は「60000」。その裏には、家の間取り図のような染みが残っていました。

ただ、その染みの中心にだけ、小さな明かりがついていたそうです。

停電は、もう復旧していたはずでした。

それでも、その紙片を乾かそうとした者はいなかったといいます。乾いたあとに、どの家の形になるのか、誰も確かめていないそうです。

この怪談は、以下の記事をきっかけに生成されたフィクションです。

Tropical storm Jangmi batters Japan, cuts power to 60,000 homes

reuters.com

 

タイトルとURLをコピーしました