午後八時五十六分、そのホームでは、黄色い時計を見上げてはいけないという話がある。
高架の下へ吸い込まれるように暗い線路、白いホームドア、蛍光灯に照らされた天井の配管。案内表示には、三分後の三鷹行きが出ている。人々はみなスマートフォンを見て、誰も時計を見ない。見ないようにしている、と言ったほうが近い。
最初に異変に気づいたのは、終電前の点検をしていた駅員だった。八時五十六分になると、黄色い点字ブロックの突起が、一列だけ低くなる。摩耗ではない。指で触ると、まだそこに丸みはある。だが足で踏むと、そこだけ平らな床のように沈むのだという。
次の晩、駅員はその場所を見張った。時計の針が五十六分を指した瞬間、ホームの奥から風が来た。列車の風ではなかった。線路側からではなく、床の下から、薄く冷たい息が上がってきた。
ホームドアの白い板の内側に、黒い筋が浮いた。一本、二本、三本。爪で引っかいたような跡が、乗車位置の高さではなく、足首の高さに並んでいく。何かが下から、そこに立っている人間の数を数えているようだった。
そのとき、白い傘を床についた客の足元だけ、点字ブロックの黄色が少し暗くなった。傘の先が沈んだのではない。床のほうが、傘の先を迎えに上がったように見えたという。
三分後、案内表示が二十時五十九分を示し、列車が入ってきた。乗客は何事もなかったように乗った。だが、白い傘の客だけが動かなかった。いや、動いてはいた。列に合わせて一歩前へ出たはずなのに、その靴音だけがホームの上に残り、体は扉の前に見えなかった。
列車が出たあと、そこには傘の先ほどの黒い穴が一つあった。穴というより、床材の中に時間だけが焦げついたような丸い痕だった。駅員がライトを当てると、穴の奥に黄色い突起がいくつも見えた。点字ブロックの丸い粒だった。それが、靴底に踏まれる側ではなく、内側からこちらを向いて並んでいた。
翌朝、その床は補修された。だが補修材は乾く前に内側へ吸われ、表面にはまた、同じ丸い痕が出た。記録上、作業完了時刻は二十一時十二分になっている。けれど作業員全員の端末だけ、写真のタイムスタンプが午後八時五十六分で揃っていた。
今でもそのホームで、八時五十六分に時計を見上げると、足元の黄色い突起がひとつ足りなく見えることがある。
そのとき靴裏を見てはいけない。
足りないはずの黄色い点が、あなたの靴底に、きれいに一列で増えているからだ。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

