夕方の路線バスは、身動きが取れないほど混雑していた。仕事帰りの乗客が通路を埋め、つり革に手が届かない人たちは、座席の背もたれや手すりに身体を預けている。停留所に着くたびに数人が降りたが、それ以上の人数が乗り込んできた。
私が立っていたのは、後方の座席へ続く通路だった。すぐ横に、業務用らしい黒いノートパソコンを膝に載せた男性が座っていた。胸元には、大手通信事業者の社員であることが分かる社章と社員証がある。街の携帯電話ショップでも見慣れた、あの会社のマークだった。
男性はバスの揺れをものともせず、パソコンのキーボードを叩いていた。画面の縁には黄色い注意シールが貼られ、キーボードの中央には、マウスの代わりに使う赤い丸い操作ボタンが埋め込まれていた。古い業務端末らしく、画面には指紋や埃が目立った。いかにも長年使い込まれた会社の備品という印象だった。
気になったのは、画面に表示されている内容だった。
表計算ソフトに似た画面に、契約者氏名、生年月日、住所、携帯電話番号が並んでいた。男性が何かを入力すると、右端の欄に処理結果らしい文字が表示される。画面の角度がこちらに向いていたため、立っているだけで相当な範囲が読めてしまった。
これほど混雑した公共交通機関で、顧客の個人情報を扱ってよいのだろうか。近くには私以外にも立っている乗客が何人もいる。少し身体を傾ければ、名前も住所も確認できる距離だった。会社の情報管理規程がどうなっているのかは知らないが、少なくとも感心できる光景ではなかった。
それでも、注意する気にはなれなかった。男性はひどく真剣な表情で作業していたし、こちらが画面を覗いていること自体、褒められた行為ではない。見なければいいだけだと思い、視線を窓へ戻した。
そのとき、画面の右端に奇妙な文字が見えた。
《副回線接続先:頸部》
通信会社の業務で、そんな項目を使うものだろうか。見間違いかと思ってもう一度確かめると、男性が画面を切り替えた。今度は顧客の顔写真らしい画像が表示された。
ただし、顔ではなかった。
人間の後頭部だった。髪の生え際から肩までを、すぐ後ろから撮影したような写真である。首の右側に小さな黒い筋があり、そこだけ皮膚が不自然に窪んでいた。画像の下には、先ほどの顧客情報と同じ形式で氏名や電話番号が記載されていた。
顔認証のための資料にしては妙な写真だった。私は反射的に画面から目を離し、前に立っている乗客の背中を見た。
その女性は、茶色いコートを着ていた。肩までの髪を後ろで束ね、片手でつり革を握っている。首元には白いシャツの襟が覗いていた。
その首筋に、黒い筋があった。
パソコンに表示されていたものと、よく似た位置だった。皮膚が縦に一センチほど裂けているように見える。傷にしては血がなく、ほくろにしては細長い。バスの揺れで女性の髪が動いた瞬間、その黒い筋もわずかに動いた。
左右に開いたのである。
私は思わず目を凝らした。裂け目の内側に、白っぽい小さな粒が並んでいた。上と下に、二列。人間の歯を小さくしたような形だった。
女性は何も気づいていない様子だった。スマートフォンを見ながら時折親指を動かし、バスが揺れるとつり革を強く握り直す。首筋の裂け目だけが、その動きとは無関係に、ゆっくり開閉していた。
生暖かい空気が私の頬を撫でた。窓は閉まっている。車内の空調から吹く乾いた風とも違っていた。女性の首の後ろから、誰かが短く息を吐いているようだった。
私は男性のパソコンへ視線を戻した。
画面の写真が変わっていた。今度は灰色の上着を着た中年男性の後頭部が表示されている。首の中央に、やはり黒い裂け目があった。
数人前に、その男性が立っていた。首に巻いていたマフラーを緩めると、襟の内側から黒いものが覗いた。それは先ほどの女性のものより大きく、縦に三センチほどあった。
裂け目が開いた。
内側には細かな歯がびっしり並んでいた。上顎と下顎があるように見えたが、どちらも皮膚の奥へ埋まっている。唇らしい肉がゆっくりめくれ、暗い穴から湿った空気が漏れた。男性本人は、何事もないように前を向いていた。
パソコンを操作している社員の指が、急に速くなった。男性はキーボード中央の赤いボタンを指先で操作し、画面上の項目を選んでから、何度もキーを押していた。画面には小さな確認画面が現れた。
《副回線切断処理》
《対象端末:確認済》
《切断を実行しますか》
男性はすぐに実行を選んだ。
数人前の男が、突然、肩をすくめた。首筋が一瞬だけ大きく膨らみ、マフラーの下で何かが波打った。男は首を押さえて振り向いたが、すぐに何事もなかったように手を下ろした。
画面の表示が変わった。
《処理完了》
パソコンの社員は短く息を吐いた。それから、次の顧客情報を開いた。私はようやく、この男性がただ顧客名簿を閲覧しているのではないと理解した。
彼は、何かを処理している。それも、今このバスに乗っている人間の身体に関係する、何かを。
不意に男性が顔を上げた。私と目が合うと、表情が変わった。驚いたというより、ひどく困ったものを見つけたような顔だった。
「画面、見てましたか」
低い声だった。私は答えなかった。男性は一度だけ周囲を確認し、パソコンの画面を自分のほうへ傾けた。
「お願いです。もう見ないでください」
その言い方には、情報を覗かれたことへの怒りがなかった。むしろ、懇願に近かった。私が何か言おうとすると、男性は視線を画面へ戻し、小さく舌打ちした。
私はまだ、その画面の端を見ることができた。
《外部閲覧者:1》
《追加接続先を検索中》
画面が一瞬暗くなり、新しい画像が表示された。それを見て、私は全身の血が引くような感覚に襲われた。
そこには私の後頭部が映っていた。
今着ている上着の襟、少し乱れた髪、右肩に掛けた鞄の紐。すべてが一致している。画像の背景には、バスのつり革と、前に立つ茶色いコートの女性まで写っていた。
まるで、私の背後から誰かが撮影しているようだった。
しかし、そこには誰も立てない。私は通路の最後尾近くにおり、すぐ後ろは座席の背もたれだった。そもそも、写真を撮られるような気配など感じなかった。
画面上の私の首筋には、何もなかった。
ところが、画像の下に小さな処理画面が現れると、首の中央に細い黒い線が浮かび上がった。最初は髪の毛ほどだった。それがゆっくり太くなり、皮膚を内側から押し広げるように膨らんでいく。
私は慌てて自分の首に手を当てた。
皮膚は普通だった。汗ばんでいるだけで、傷も窪みも感じられない。だが指を離した瞬間、首の後ろに冷たいものが触れた。
一本の指で押されたような感触だった。
それが二本、三本と増えた。首筋の皮膚の内側を、細いものが横へ押し分けている。痛みはない。ただ、そこに本来存在しない空間ができていくような、奇妙な圧迫感があった。
パソコンの社員が、今度ははっきりと私に言った。
「首を触らないで。刺激しないでください」
私は手を下ろした。
画面では、私の首の裂け目が大きくなっていた。その縁に小さな白いものが現れ始めている。歯だった。一本ずつ、狭い皮膚の内側から押し出されるように並んでいく。
男性は必死にキーを叩いていた。画面に何度も確認画面が出現し、そのたびに実行を選んでいる。しかし処理は進まなかった。
《接続先が閲覧中です》
《切断できません》
その文字が繰り返し表示された。
首の後ろで、何かが動いた。今度は外から触れられる感触ではなかった。皮膚の内側にある柔らかいものが、ゆっくりと上下に分かれた。
私は口を閉じていた。それなのに、喉の奥から息が漏れるような音がした。
はあっ。
自分が吐いた息ではなかった。
同時に、首の後ろから湿った空気が流れた。シャツの襟が内側から持ち上がり、生温かい何かが背中を伝った。まるで、私の首にもう一つ呼吸する口ができているようだった。
男性は画面を見つめたまま、私に背を向けるように身体を傾けた。キーボードを叩く音が激しくなる。車内の話し声やエンジン音の中でも、その硬い音だけが妙にはっきり聞こえた。
やがて男性の指が止まった。
「……間に合わない」
その瞬間、バスが急ブレーキをかけた。乗客の身体が一斉に前へ傾き、つり革や手すりが大きく揺れた。私も前の座席へ手をついた。
男性の膝からパソコンが滑り落ちかけた。彼は両腕で抱え込み、そのまま力任せに画面を閉じた。
ぱん、と乾いた音がした。
首の後ろで、何かが噛み合った。
鋭い痛みが走り、私は声を上げた。皮膚を内側から強く挟まれたような痛みだった。思わず首を押さえると、指先に湿った感触があった。
男性は閉じたパソコンを胸に抱えていた。顔色が悪かった。何かを言いかけたが、結局、何も言わなかった。
次の停留所で私はバスを降りた。男性も一緒に降りようとして立ち上がったが、結局そのまま座席へ戻った。ドアが閉まる直前、こちらを見ているのが分かった。
その表情を、今も覚えている。
謝りたいような、しかし謝ってもどうにもならないと知っているような顔だった。
帰宅してすぐ、洗面所で首を調べた。鏡を二枚使い、襟を下げて確認したところ、後頭部の生え際より少し下に赤い跡があった。
長さは二センチほど。二本の曲線が向かい合い、その間に細かな点が並んでいる。何かに噛まれたようにも見えたが、普通の歯形とは違った。上下の跡がぴったり重なり、隙間のない一本の縦線になっていた。
傷口は開いていなかった。出血もなく、皮膚の表面は滑らかだった。けれど指先で触ると、そこだけ少し硬い。薄いゴムを皮膚の下へ埋め込んだような感触があった。
数日後、皮膚科を受診した。医師は古い圧迫痕のように見えると言った。痛みも炎症もなく、特に治療の必要はないという。私も、それ以上は説明しなかった。
あれから、同じ時間帯のバスには乗っていない。通信会社の社員らしい男性を見かけたこともない。首の跡は薄くなったものの、完全には消えず、現在も指で触れば形が分かる。
あの男性が何をしていたのかは、結局分からない。
ただ、ひとつだけ確かなことがある。
彼が閉じたパソコンの画面には、最後まで私の顧客情報が表示されていた。そして、その右端には、赤い文字が残っていた。
《副回線開通処理:未完了》
私は今でも、あの文字を思い出すことがある。画面を閉じたことで処理が中断されたのなら、何も起きないはずだ。少なくとも、そう信じたい。
だが、どうしても引っかかっていることがある。
あの画面には「開通失敗」とは書かれていなかった。
「未完了」だったのである。
そして、首の後ろに残った二本の傷は、何かが外から噛みついた跡ではない。
皮膚の内側から開こうとした口を、途中で無理やり閉じたような形をしている。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

