消火栓の乾いた輪

写真怪談

雨上がりの朝、その消火栓の周囲だけ、直径二メートルほど路面が乾いていた。

広い道路に面した歩道の端に、赤い消火栓が一本立っている。頭上には白い縁取りの丸い標識があり、赤地に「FIRE HYDRANT」「消火栓」と書かれている。周囲には膝ほどまで伸びた草が茂り、夜になると街灯の光だけが赤い本体を浮かび上がらせていた。

珍しい形ではない。その道路沿いでは古くから使われている設備だった。

妙だったのは、乾いていたのが舗装だけではなかったことだ。消火栓の根元に生えている草も、葉の裏まで乾いていた。外側の草には大粒の雨滴が残っているのに、ある位置を境に、濡れた葉が一本もない。

境界はほぼ円形だった。

排水の影響なら、低い場所へ水が流れる。屋根もない。大型車が停まっていた形跡もない。しかも土を指で掘ると、表面だけではなく十センチほど下までさらさらしていた。

水道設備の保守を担当する作業員たちは、漏水よりも先に逆のことを疑った。

消火栓が、水をどこかへ吸っているのではないか。

もちろん、そんな機能はない。

消火栓は水を出すための設備で、周囲から水分を集めるものではない。地下の弁を閉じれば内部への供給も止まる。その日は弁を閉じ、内部に残った水も排出したうえで、翌朝まで様子を見ることになった。

夜十一時を過ぎてから、二人の作業員が現場に残った。

雨は九時ごろに止んでいた。歩道も車道も黒く濡れ、植え込みからは雫が落ち続けている。赤い消火栓も表面に細かな水滴をまとっていた。

十一時四十七分。

本体の下部だけ、水滴が消え始めた。

流れ落ちたのではなかった。粒が小さくなり、その場でなくなっていく。乾く速度はゆっくりだったが、赤い塗装の上を下から上へ、目に見えない線が登っていくように水滴が消えていった。

午前零時を過ぎるころには、消火栓全体が乾いていた。

標識を支える細い金属棒まで乾いていた。

一人の作業員が濡らした雑巾を根元へ置いた。

数分すると、雑巾から色が失われたように見えた。持ち上げると軽く、強く絞っても一滴も落ちなかった。熱を持っているわけではない。むしろ雨上がりの夜気と同じくらい冷たかった。

次に、未開封のペットボトルを置いた。

これは念のためだったという。

水は容器の中にある。蓋も開いていない。周囲の湿気が消える現象と同じことが起こるはずはない。

十分ほど何も起きなかった。

十五分を過ぎたころ、ペットボトルの側面が小さく鳴った。

ぺこり、と中央がへこんだ。

作業員たちは触れなかった。

それから数分ごとに、容器は少しずつ潰れていった。穴はない。蓋も開いていない。しかし内部の水面は確実に下がっていた。

三十分後、半分近くがなくなっていた。

地面は濡れていなかった。

念のため消火栓上部の口金を開けた。地下の弁は閉じてある。内部の水は夕方にすべて抜いている。

それでも中には、水が溜まっていた。

ライトを向けると、黒い筒の奥に静かな水面が見えた。

作業員が細い棒を差し込み、深さを測った。およそペットボトルから消えた量と合っていたという。

そこで作業は中止になるはずだった。

だが一人が、もう一度だけ確かめたいと言った。

消火栓から三メートルほど離れた場所へ未開封のボトルを置いた。変化はなかった。二メートル。変化なし。一メートル半まで近づけると、数分後に容器がへこんだ。

境界がある。

そう考えた作業員は、自分の靴を少しずつ前へ出した。

地面には、濡れた場所と乾いた場所がはっきり分かれていた。靴の先が乾いた側へ入った瞬間、作業員は足を引いた。

靴下が急に冷えたのだという。

雨水が染みたのではない。

逆だった。

靴の中から湿気が消えていた。

汗で湿っていた靴下が、数秒で乾いた。足の裏が紙のように突っ張り、その直後、口の中まで急に乾いた。

作業員は後ろへ下がった。

唇の内側が裂けて血が滲んでいたが、舌で触っても血の味がほとんどしなかったという。目も痛んだ。涙を出そうとしても出ない。

もう一人が腕をつかんで円の外へ引き戻した。

そのとき、消火栓の内部で小さな音がした。

水滴が落ちる音だった。

一滴。

少し間を置いて、もう一滴。

作業員の口元から血が滲むたび、同じ音がしたという。

二人は工具を放置したまま現場を離れた。

翌朝、周囲には立入禁止の柵が置かれた。作業員は病院へ行き、軽い脱水症状と診断された。前夜まで普通に水分を取っていたことを話しても、原因については分からなかったそうだ。

消火栓の内部には、約六リットルの水が残っていた。

前夜に周囲へ置かれていた水分を全部足しても、その量には届かなかった。

さらに内部を乾燥させて調べると、筒の内壁に白い線が何本も残っていた。

水垢だった。

問題は、その高さだった。

普通なら水の溜まった位置に水平な跡ができる。だが内壁の線は、下から上まで十数本あり、口金の裏側にも続いていた。

さらに分解すると、もっと上にあった。

水の通る構造になっていない、標識を支える金属棒の内側にも、同じ白い線が残っていた。

赤い円形標識の裏面まで達していたという。

まるで何年もかけて、内部の水位が少しずつ高くなってきたようだった。

その消火栓は撤去された。

地下の配管には異常がなく、漏水も逆流も確認されなかった。新しい消火栓は数メートル離れた場所に設置され、古いものが立っていた穴はコンクリートで塞がれた。

雨が降ると、そこも普通に濡れるようになった。

少なくとも昼間は。

撤去から半年ほど経った冬、夜間の道路補修をしていた作業員から連絡が入った。

午前一時過ぎ。

雨上がりの歩道に、直径二メートルほどの乾いた円ができていた。

中心には何もない。

消火栓も標識も撤去され、平らなコンクリートがあるだけだった。

それでも円の内側へ置いた工具には、短時間で異変が出た。

濡れていた軍手は乾いた。

飲みかけのペットボトルは潰れた。

そしてコンクリートの中央には、前夜までなかった細い亀裂が一本できていた。

亀裂は翌週には三本になった。

翌月には、丸く並んだ。

現在、その場所には厚い鋼板が敷かれている。

水道関係者の間では、深夜にそこを点検するときだけ、決められていることがあるそうだ。

乾いた円を見つけても、中へ入らない。

水を掛けない。

そして、円の中心に耳を近づけない。

最後の決まりだけは、理由を聞いても教えてもらえない。

ただ、以前そこで作業した人が一度だけ、こう説明したという。

鋼板の下から水音がするのではない。

人が円の中へ入ると、その人の身体の中で鳴るはずの水音が、先に鋼板の下から聞こえるのだ、と。

雨の夜、その道路を通ると、赤い新しい消火栓が街灯に照らされている。

少し離れた古い設置跡には鋼板がある。

その周囲だけ草が生えていない。

そして雨上がりには、ときどき鋼板の縁に白いものが浮く。

塩のような、細かな結晶だという。

この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

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