目を閉じた瞬間、温室の白い骨組みが、赤い瞼の裏にくっきりと残った。強い光を見たあとの残像だと思った。ハスの池を囲む温室は、天井まで白い鉄骨が張り巡らされていた。池には大小の葉が浮かび、その間から紫や桃色の花が顔を出している。休日で人も多く、静かな場所ではなかった。
それなのに、瞼の裏に残った温室には、誰もいなかった。白い骨組みと、緑色の池だけ。そして池の中央に、黒いものが立っていた。目を開けると消えた。池の中央にはハスの葉が浮かんでいるだけで、人が立てる場所などない。
もう一度、目を閉じた。白い格子が浮かぶ。黒いものは、さっきより近くにいた。女だった。長い髪が胸の前まで濡れて垂れ、白い服が身体に貼りついている。膝から下は池の中に沈んでいた。顔は髪に隠れて見えない。周囲のハスの葉には波紋ひとつなかった。
怖くなって目を開けた。明るい温室だった。子どもが池を覗き、係員が脚立を運び、観光客が花の名前を確かめている。黒い服を着た人も何人かいる。しかし、あの女ではない。
瞬きをした。女は池の縁に立っていた。目を開ける。誰もいない。もう一度瞬きをすると、女は手すりの内側にいた。その距離は、瞬きのたびに縮まった。
私は温室を出た。屋外へ出ても、瞼の裏から温室は消えなかった。駅のホームで目を閉じても、電車の中で瞬きをしても、白い骨組みとハスの池が現れた。現実の景色が変わっても、残像の中だけは同じ温室だった。
女は池を出ていた。濡れた足で、こちらへ歩いていた。歩く動作は見えない。一度目を閉じると遠くにいる。次に閉じると数メートル近づいている。その次には、もっと近い。家へ着く頃には、女は温室の出口に立っていた。
私はできるだけ瞬きをしないようにした。目が焼けるように乾き、涙が流れた。けれど、その涙を拭くために目を閉じることもできなかった。明かりをすべてつけたまま、いつの間にか眠った。
夜中、強い尿意で目が覚めた。時計は午前二時四十分を示していた。目の奥が痛かった。トイレへ行く途中、何度か瞬きをした。白い骨組み。ハスの池。女はもう温室にいなかった。白い格子の下には、誰もいない池だけが残っていた。少し安心した。女は消えたのだと思った。
トイレの明かりをつけ、便座に腰を下ろした。蛍光灯の白さが目に刺さった。反射的に目を閉じた。瞼の裏に、温室ではなく、今いるトイレが見えた。便器。壁。閉まった扉。天井の換気扇。目を閉じているのに、すべてが見えていた。ただし、天井には温室の白い骨組みが張り巡らされていた。そして扉の前に、あの女が立っていた。
私は目を開けた。誰もいない。目を閉じた。女は便器の向こう側にしゃがんでいた。垂れた髪の先から、黒い水が床へ落ちていた。目を開ける。床は乾いている。また閉じる。女の両手が、便器の縁に掛かっていた。青白い指が十本、陶器を掴んでいる。
私は悲鳴を上げて立ち上がった。目を開けたまま便器を見ると、女はいなかった。けれど、便器の内側に、濡れた指の跡が十本残っていた。水滴ではなかった。陶器の白い表面が、指の形に内側から曇っていた。女は、見えないところから便器をよじ登ろうとしていた。
私は目を閉じまいとした。しかし涙があふれ、視界が滲んだ。瞼が勝手に落ちた。女の顔が、目の前にあった。髪の隙間から、白く濁った目が二つ見えた。鼻先が触れるほど近い。唇は紫色で、口の端から細い根のようなものが何本も垂れていた。その顔が、私の瞬きに合わせて少しずつ大きくなった。
目を開けた。女はいなかった。代わりに、濡れた髪が一本、私の頬に貼りついていた。その髪は床へ落ちていなかった。上へ伸びていた。見上げると、換気扇の隙間から、何十本もの黒い髪が垂れていた。髪の奥で、何か白いものがゆっくり動いた。私はトイレから逃げた。
翌朝、家族が確認したとき、換気扇には長い髪が絡まっていた。家族の誰のものでもなかった。切ろうとすると、髪は換気扇の奥へするすると引っ込んだという。便器の指跡は洗剤でも漂白剤でも消えなかった。十本の指が、内側から外へ向かって陶器を掴んでいる。
私はその家を出た。新しい部屋では、夜中にトイレへ行かなくなった。尿意で目を覚ましても、朝まで布団の中で耐える。暗闇で瞬きをすると、今でも白い温室が見えるからだ。
池の水は以前より黒くなっている。ハスの葉もほとんど残っていない。女はもういない。だが最近、その池の中央に、別の男が立つようになった。半年前、私の部屋へ泊まりに来て、夜中にトイレへ入ったまま行方不明になった弟だ。
弟は瞼の裏から、こちらを見ている。首を不自然に傾け、両腕を水の中へ沈めている。瞬きをするたび、弟の背後から白い手が少しずつ伸びてくる。昨夜、その手は弟の肩を越えた。
今朝、新しい部屋の便器を確かめると、内側に指の跡が一つだけ付いていた。前の家に残してきたものより、ずっと小さな跡だった。今夜、もう一つ増える気がする。
だから私は、夜中にトイレへ行かない。あれは池から出てくるのではない。閉じた瞼の裏を通って、便器の中へ移ってくる。そして十本の指が揃ったとき、次に池へ立つのが誰なのか、私はもう知っている。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

