花屋の棚の下から、かすかに息を吸う音がしていた。
雨上がりの夕方、商店街の小さな花屋は、通路まで鉢植えを並べていた。紫陽花は透明な袋の中で青く湿り、ゼラニウムの札は黒板みたいな小さな板に白い字で刺さっている。黄色や桃色の花は、明るい店先ではなく、棚の奥の暗がりへ顔を向けていた。
店番をしていた知人は、水やりのあとだったので、最初は鉢底に残った水音だと思ったという。けれど、音は垂れるのではなく、吸っていた。
すう。
短く、湿った音がするたび、棚板の隙間に置かれた黒いトレーが、ほんの少し曇った。そこに水は溜まっていない。土もこぼれていない。ただ、ある一鉢の下だけ、丸い湿りが二つ並んでいた。
鉢底の穴の位置だった。
知人はその鉢を持ち上げた。花は白と橙が混じった小さなものだったが、持った瞬間、根の重さではない重みが手首に落ちた。中に水が詰まっているのではない。誰かの胸を、鉢の形に押し込めたような、ゆっくり膨らむ重さだった。
鉢を戻すと、また音がした。
すう。
今度は、周りの花が一斉に揺れた。風はなかった。店の自動ドアも閉まっていた。揺れ方も、葉が風に撫でられるものではない。人が眠っている部屋で、布団の端だけが呼吸に合わせて上下する、あの動きに似ていた。
閉店前、鉢の数を確認したとき、一つ多かった。
伝票では十二鉢。棚には十三鉢。増えていたのは、さっきの白と橙の鉢ではなかった。黒いポットの中に、まだ花の咲いていない緑だけの苗があった。値札も品種札もない。葉は小さく、丸く、どれも内側へ巻いている。
知人がそれをどかそうとすると、鉢の縁に水滴がついていた。
触ると温かかった。雨粒でも水やりの水でもない。指先で拭ったあと、その水滴はまた同じ場所に戻ってきた。葉の裏から滲むのではなく、鉢の内側から息を吐くように、ぷつり、と浮いた。
その夜、店の奥の流しで手を洗っていると、指の腹に土の匂いが残っていた。石鹸を使っても落ちなかった。爪の間ではない。皮膚の内側から、湿った鉢土の匂いがしていた。
翌朝、知人が店へ行くと、無札の鉢はなくなっていた。
売れた記録はない。防犯カメラにも、鉢を持ち出す人は映っていなかった。ただ、棚の中央に丸い湿りだけが残っていた。鉢底の形に似ていたが、よく見ると違う。二つの穴の横に、もう一つ、浅いへこみが増えていた。
鼻と、口のようだった。
その日から、店の鉢植えはよく売れた。枯れにくいと評判になり、夕方には棚が空くこともあった。ただ、買っていく客の中には、代金を払ったあとで一度だけ息を止める人がいる。自分で気づいていない。花を抱えたまま、胸の奥を誰かに借りられたみたいに、ほんの数秒だけ呼吸を忘れる。
知人はもう、その花屋を辞めている。
けれど家の玄関には、退職の日にもらった小さな鉢が一つ置いてある。水はやっていないのに枯れない。土は乾いているのに、鉢の下だけ湿っている。
夜中、玄関のたたきから音がするという。
すう。
鉢が息を吸うたび、家の中の空気が少し薄くなる。朝になると、鉢底の丸い跡が、ほんの少しだけ部屋の奥へずれている。
そして湿った跡の中央には、いつも小さな黒い土が一粒残る。
まるで、そこから何かが芽を出す順番を待っているみたいに。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

