雨はまだ降っていなかった。
朝の空気だけが先に湿っていて、シャツが肌に張りつく。空を見上げれば厚い雲が広がっている。昼にはひと雨来るだろうと、誰もが思うような朝だった。
仕事へ向かう途中、歩道橋を渡ろうとして違和感を覚えた。
手すりが濡れている。
雨粒ではない。触れると水ではなく、冷たい湿気だけが指先へまとわりついた。金属が息をしているようだった。気味は悪かったが、それだけだった。
階段を上り始める。
一段。二段。三段。
そのとき、不意に後ろから足音がした。
コツ。
少し遅れて、
コツ。
出勤時間だ。誰かいるのだろう。そう思って振り返る。
誰もいなかった。
車の音は聞こえる。風もある。人だけがいない。
聞き間違いだと思って歩き出す。
コツ。
また一段下から聞こえた。
今度は振り返らない。
自分が踏むたびに、半拍だけ遅れて、もうひとつ音が返ってくる。橋を渡り切るころには、それも止んでいた。
昼過ぎ、本当に雨が降った。
翌朝、歩道橋は乾いていた。階段も乾いていた。
それなのに、手すりだけが昨日と同じ湿り気を残していた。
触れた指先は会社へ着いても乾かない。洗っても、拭いても、昼になれば消える。それが雨の降りそうな朝だけ繰り返された。
やがて足音も戻ってきた。決まって、自分の一歩あとからだった。
ある朝、試しに立ち止まってみた。
音も止まる。
歩き出す。
コツ。
やはり付いてくる。
その日以来、その歩道橋は通らなくなった。
数か月後、写真を整理していて、あの日の朝に撮った一枚が出てきた。空が重く、雨の匂いまで写せそうだと思って撮っただけの写真だった。
何気なく眺めているうちに、違和感を覚えた。
手すりが濡れて見える。
もちろん、写真だから乾くことはない。そう思って画面を閉じた。
指先が冷たい。
画面を触っていた右手だけが、雨に当たったあとのように湿っている。
気のせいだと思い、水道で洗った。乾かした。それでも冷たさだけは消えなかった。
それ以来、その写真は開いていない。開けば、また指先が湿る気がするからだ。
それでも雨の降りそうな朝になると、どうしても思い出してしまう。
あの写真には、誰も踏めないはずの八段目まで、湿り気だけが続いている。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

