終電で帰った夜のコンビニは、店内放送まで眠そうだった。
レジ前の揚げ物ケースは空で、雑誌棚の前にも誰もいない。明るいのは奥の冷蔵ケースだけだった。ガラス扉の向こうに、金の星がついた白い缶や、青い缶、黒い缶が、きっちり前を向いて並んでいる。
私は一本だけ買って帰るつもりで、ビールの棚の前に立った。
扉を開ける前から、指先が冷えた。
おかしいなと思った。ガラス一枚隔てているのに、冷気が手の甲にまとわりついてくる。しかも、外へ漏れている冷たさではない。手の中から熱だけを吸い出されるような、内側へ沈む冷たさだった。
棚札を見ると、いつもの値段の札が並んでいた。
五百ミリ、二百十四円。
五百ミリ、二百十四円。
五百ミリ、二百十四円。
その列の中に、一枚だけ、商品名のない札があった。値段もない。ただ、容量の欄だけに細い字で、
五百ミリ不足
と印字されていた。
瞬きをすると、札は元に戻った。白い缶の銘柄名と値段が、そこにちゃんとあった。
疲れているのだと思った。
扉を開けると、冷蔵ケースのモーター音がぴたりと止まった。深夜の店内から、一瞬、音が全部抜けた。かわりに、缶の上でプルタブがかすかに震える音がした。
かち。
一本ではない。
棚の奥から手前へ、順番に。
かち、かち、かち。
誰かが缶の蓋を、内側から爪で弾いているみたいだった。
私は一番手前の白い缶を取った。すると、取ったはずの場所に、隙間ができなかった。奥の缶が滑って出てきたわけでもない。最初からそこに同じ缶がもう一本あったように、列は乱れず、金の星だけがこちらを向いていた。
怖くなって扉を閉めた。
閉める直前、ガラスの内側に細い曇りが走った。結露にしてはまっすぐすぎる。棚の端から端まで、白い線がすっと引かれた。
ちょうど、缶一本分の高さだった。
レジでは普通に会計できた。店員は眠そうにバーコードを読み取り、袋は要りますかと聞いた。私は首を振って、缶だけをコートのポケットに入れた。
外へ出てから、レシートを見た。
商品名の欄が、空白だった。
金額は二百十四円。税も合っている。けれど、いちばん下に、見慣れない印字があった。
冷蔵戻し期限 00:57
腕時計を見ると、00:54だった。
あと三分。
意味がわからず、私はレシートを握りつぶして歩いた。家まで十分かかる。期限なんて関係ない。返すつもりもない。そう思いながら、ポケットの缶を握った。
冷たくなかった。
買ったばかりの缶なのに、ぬるいのでもない。温度がなかった。金属に触れているのに、指先が何も判断できない。まるで、そこだけ触覚の方が欠けている。
部屋に帰ると、00:59だった。
缶をテーブルに置いた。結露はひとつも出ていない。その代わり、缶底に印字された賞味期限の横に、小さく数字が増えていた。
499ml
そんな印字があるはずはない。
爪でこすっても落ちなかった。印刷でもシールでもなく、アルミの中から浮いているような数字だった。
次の朝、缶はまだテーブルにあった。開けていない。触っていない。それなのに、数字は498mlになっていた。
その晩には497ml。
三日目には496ml。
減っているのは中身ではなかった。
私の帰宅後の時間だった。
缶の数字が一つ減るたびに、私は夜の記憶を少しずつ失った。鍵を開けた覚えがない。靴を脱いだ覚えがない。風呂に入ったはずなのに、髪が乾いている。スマホの歩数は家の中で五百歩ずつ増えているのに、部屋のどこにも歩いた跡はない。
四日目の夜、缶底の数字は492mlになっていた。
私は缶を捨てようとした。
近所の自販機横の空き缶入れに入れた。落ちる音はしなかった。穴の中で何か柔らかいものに受け止められたように、すっと消えた。
これで終わったと思った。
けれど帰り道、あのコンビニの前を通った。
冷蔵ケースのガラスが、店の奥で白く光っていた。寄るつもりはなかった。なのに足が止まった。扉の前に立つと、棚の奥、白い缶の列の最後尾に、見覚えのある缶があった。
缶底がこちらを向いていた。
普通、そんな向きで陳列されるはずがない。だがガラス越しに、底の数字だけがはっきり読めた。
492ml
その下の棚札は、商品名が空白だった。
値段の欄には二百十四円。
容量の欄には、こうあった。
返却済
店員を呼ぼうとしたが、店内には誰もいなかった。レジにも、通路にも、人の気配がない。自動ドアだけが開いたまま、深夜の道路に向かって薄い音を立てていた。
私は逃げた。
それから、そのコンビニには寄っていない。
ただ、家の冷蔵庫がおかしい。
飲み物を入れても、必ず一本分の隙間ができる。ペットボトルを詰めても、缶コーヒーを並べても、翌朝には奥の列が少しずつ左右へ避けて、中央に冷たい空白が残る。
その空白だけが、異様に白い。
冷蔵庫の内側に、いつ貼られたのか分からない小さな棚札がある。
五百ミリ、二百十四円。
バーコードの数字は、私の部屋番号と同じ並びだ。
昨夜、その棚札の下に、見覚えのあるレシートが挟まっていた。捨てたはずの、あのレシートだった。
下の印字だけが変わっていた。
冷蔵戻し期限 00:57
期限切れ
缶はまだ見つかっていない。
けれど冷蔵庫を開けるたび、奥からプルタブの音がする。
かち。
かち、かち。
一本分の空白が、少しずつ大きくなっている。
次にそこへ戻されるものが、五百ミリで済むとは、もう思えない。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

