風邪で体調を崩した日の仕事帰り、駅前の小さな丼屋に入った。
薬を飲むほどではない、と思いたかった。喉の奥が腫れて、背中の内側だけが寒い。けれど腹は空いていて、目の前に出されたスタミナ丼の匂いを嗅いだ瞬間、身体が勝手に箸を取った。
黒い丼には、豚肉と玉ねぎが山のように盛られ、その横に細いキャベツが白く積まれていた。左には味噌汁。奥には唐辛子、にんにくの入った容器、割り箸立て、それから白い紙ナプキンの束が、金属の壁を背にしてきちんと立っている。
一口目を飲み込んだとき、額の汗がすっと引いた。
代わりに、紙ナプキンのいちばん手前の一枚が、ふくらんだ。
湯気を吸ったのだと思った。店内は狭く、厨房の熱も近い。だが、その紙のふくらみ方は、鼻をかんだあとのティッシュに似ていた。内側から湿り、白い繊維がゆっくり毛羽立っている。
二口目を食べると、寒気が少し和らいだ。背中の奥に刺さっていた冷たい針が、一本抜けるような感じがした。
同時に、紙ナプキンの角が一枚だけ垂れた。
そこに、薄い数字が浮いていた。
三十八・六。
印刷ではない。油染みでもない。濡れた指で押した跡が、数字の形にだけ白く濃く残っている。私は箸を止めた。自分の体温を測ったわけではない。けれど、その数字には見覚えがあった。朝、家を出る前に体温計が示した値だった。
厨房では肉を焼く音がしていた。隣の客はスマホを見ながら水を飲んでいる。誰も紙ナプキンなど見ていない。
私は、体調が悪いと変なものが見えるのだと思い込もうとした。熱のせいだ。汗と湯気と金属の反射が、たまたまそう見えただけだ。
唐辛子を少し振った。
その瞬間、奥の金属壁が白く曇った。
私の息では届かない距離だった。曇りは紙ナプキンの背後から、壁の内側を押すように広がり、丸い拭き跡の中だけをゆっくり埋めた。曇りの中心に、また数字が出た。
三十九・二。
喉が鳴った。さっきより上がっている。
なのに、身体は楽になっていた。鼻の奥が通り、頭の重さも少し軽い。味噌汁を飲むと、胃の中から熱が戻るはずなのに、逆に指先まで冷静になっていく。丼の肉はうまかった。怖いと思うより先に、箸が進んだ。
食べるたび、私の熱が一枚ずつ剥がれていく。
そう思った。
三十八・九。
三十八・一。
三十七・四。
紙ナプキンの束は、手前から順に湿っていった。誰も触れていないのに、薄い紙が一枚ずつ前へせり出し、数字を浮かべて、やがて戻る。そのたびに、私の身体のだるさが少しずつ消える。
最後の肉を食べきったとき、視界が妙に明るくなった。
熱が下がった。そう確信した。
会計の前に、口元を拭こうとして、私は紙ナプキンを一枚引き抜いた。手前の湿った紙ではなく、奥の乾いた紙を選んだつもりだった。
紙は、熱かった。
火傷するほどではない。だが、額に押し当てたタオルの内側みたいに、生きた温度があった。慌てて手を離すと、紙はカウンターにふわりと落ちた。
そこには、数字ではなく、短い跡が浮いていた。
三十六・四。
私の平熱だった。
その下に、小さく、もう一つの濡れ跡があった。数字になりかけて、途中でやめたような跡。六でも九でもなく、丸いものが潰れた形。
店員が皿を下げに来たので、私は何も言わず席を立った。丼は空だった。味噌汁も飲み干していた。身体は驚くほど軽かった。
外に出ると、冬の風がまったく寒くなかった。
翌朝、熱はなかった。喉の痛みも消えていた。私は仕事へ行けたし、昼過ぎまで普通に過ごした。
ただ、夕方になってから、右手の人差し指だけがずっと熱いことに気づいた。
紙ナプキンを触った指だった。
洗っても冷やしても、そこだけ熱が残る。皮膚の表面ではない。骨の中に、小さな湯気の塊が閉じ込められているようだった。
その夜、上着のポケットから、白い紙が一枚出てきた。
持ち帰った覚えはなかった。
広げると、中央に薄い数字が浮いていた。
三十九・二。
その数字はすぐに滲み、別の形へ変わった。丸い濡れ跡。口を開けたような形。そこから、にんにくと味噌汁と、知らない誰かの息の匂いがした。
次の日から、風邪をひきそうになると、私はあの丼屋に行きたくなる。
食べれば楽になる。熱は下がる。仕事にも行ける。
ただ最近、紙ナプキンの束を見るたびに思う。
あの白い紙は、私の熱を吸ってくれたのではない。
私の熱に、席を譲っただけなのだ。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

