屋上の串

写真怪談

閉店後、洗い終えたジョッキから血の匂いがした。

都内西側の駅前にある、古い雑居ビルで働いていた頃の話だ。

私が勤めていたのは、下層階に入っているチェーン居酒屋だった。上にはダーツバーや小さな事務所、看板だけ出して中の様子が分からない店が入っていた。

エレベーターを降りても照明が半分しか点いていない階があり、酔った客でさえ、上へ行くほど声を落とした。

その夜、臭ったのは洗浄機から出したばかりのジョッキだった。

排水が逆流したのかと思い、シンクも洗浄機も確認した。ジョッキを洗い直しても、十円玉を濡らしたような臭いは消えなかった。

店長が新しいグラスを出し、ドリンク用の水を注いだ。

少量を口に含んだ途端、顔をしかめてシンクへ吐き出した。

「血の味がする」

同じ水を白い皿へ注ぐと、透明だったはずの底に、細い赤黒い筋が沈んでいった。

そのとき、シンク上の天井から硬いものが落ちた。

洗い終えたジョッキの中で、からん、と乾いた音がした。

白い輪だった。

米粒ほどの厚みで、片側に赤黒い肉が薄く付着していた。中央には、針を通したような穴が開いている。

歯だった。

人間の奥歯を、根元ごと輪切りにしたように見えた。

翌日、その真下にある四人席で、男性客が急に口を押さえた。ビールを一口飲んだ直後だった。

男性はナプキンへ何かを吐き出した。

前夜と同じ、穴の開いた白い輪だった。

店長が救急車を呼ぼうとしたが、男性は口の中を確かめて首を振った。歯は一本も欠けていない。血も出ていない。

ただ、舌の裏側に、針で突いたような黒い点ができていた。

それから鉄の味は、店内の一か所にだけ現れるようになった。

問題の席に座った客は、何を飲んでも血の味がすると訴えた。ビールでも、サワーでも、水でも同じだった。

グラスや製氷機、配管を調べても異常はない。席を一メートルずらせば味は消え、元の位置へ戻すと再び口の中が錆臭くなる。

やがて異変は上の階へ移った。

真上の事務所では、複合機の前に立つと歯茎から血が滲んだ。

さらに上のダーツバーでは、盤面の右端へ矢を投げた客が、着弾と同時に奥歯を鳴らした。本人は口を動かしていないのに、歯だけが上下に打ち合わされていた。

その上の店では、施術台へ横になった客の舌に、黒い点が一列に並んだ。

どの階でも、異変の起きる位置は完全に重なっていた。

管理会社が図面へ印を付けると、各階の黒い点は一本の直線で結ばれた。

線の先は屋上だった。

屋上には、用途の分からない長い竿が立っていた。

アンテナでも避雷針でもない。管理会社の古い図面には記載がなく、設置記録も残っていなかった。固定用のボルトさえ見当たらず、灰色の竿は屋上のコンクリートへ直接突き刺さっていた。

管理会社の担当者と、ダーツバーの従業員と私の三人で確認に行った。

竿へ近づくほど、血の味が濃くなった。

唾液が粘り、歯の隙間から細い金属片が生えてくるような感覚がした。口を閉じると、自分の歯ではない硬いものが何本も舌に触れた。

担当者が竿を握った。

ビルの内部から音がした。

かち。

かち、かち。

一階から順番に、音が上ってくる。

何百人もの人間が、暗い縦穴の中で一斉に歯を鳴らしているようだった。

担当者は竿の根元へ工具を差し込んだ。

腐食の状態を見るだけだと言ったが、力をかけた瞬間、竿は抵抗もなく持ち上がった。

二十センチほど抜けたところで、ダーツバーの従業員が悲鳴を上げた。

竿の表面に、歯が通っていた。

奥歯、犬歯、前歯。

黄色く変色したもの。銀色の詰め物があるもの。金の被せ物が付いたもの。

無数の歯が中央を丸く穿たれ、数珠のように竿へ連なっていた。

根元には、まだ赤い肉が付いていた。

担当者が竿を引き上げるたび、階下から悲鳴が重なった。

二階、三階、四階。

床を突き抜け、下から順番にせり上がってくる。

竿に通った金歯を見て、担当者の動きが止まった。

その歯には、担当者自身と同じ形の被せ物が付いていた。

彼が口を開けた。

金歯はまだそこにあった。

次の瞬間、歯茎が内側から盛り上がった。

担当者の頭が仰向けに跳ね、口から血が噴き出した。金歯が根ごと引き抜かれ、見えない糸に吊られたように宙へ浮いた。

それは竿の先端へ吸い寄せられ、穴を通り、硬い音を立てて下へ滑った。

かち。

二つの金歯が、竿の上で重なった。

一本は今抜けたもの。

もう一本は、抜ける前からそこにあったものだった。

担当者は膝をついた。

だが、歯が抜ける音は止まらなかった。

彼の口の奥で、まだ生えていないはずの歯が次々に盛り上がった。白い先端が歯茎を裂き、血に濡れ、根まで伸びきると、すぐに引き抜かれて竿へ吸い寄せられた。

生える。

抜ける。

また生える。

顎の内側から骨が増殖する音がした。

階下でも同じ音が続いていた。

客のものか、従業員のものかは分からない。

無数の歯が、ビルの各階をまっすぐ貫き、屋上の竿へ向かって上ってきていた。

私は工具を蹴り飛ばした。

竿が落ちた。

コンクリートの中へ沈むと同時に、すべての音が止まった。

担当者の口には、金歯が戻っていた。

血も消えていた。

ただ、屋上の床には、穴の開いた歯が一つだけ残っていた。

私の歯だった。

形を見た瞬間に分かった。

舌で触れると、右上の奥歯はまだ口の中にある。

それでも拾わずにはいられなかった。

ビルは一週間だけ休業し、配管工事という名目で営業を再開した。担当者は会社を辞め、ダーツバーの従業員も、血の味が取れないと言って店を離れた。

私も居酒屋を辞めた。

拾った歯は、小さなガラス瓶へ入れて保管している。

歯科医院で診てもらったが、私の歯には虫歯も欠損もなかった。レントゲンにも異常はない。

瓶の歯を見せると、医師は人間の歯に間違いないと言った。

ただし、中央の穴はドリルで開けたものではないらしい。

歯の内側から組織が輪の形に成長し、最初から穴を避けて形成されているのだという。

今も、ときどきあの駅前を通ると、口の中に血の味が広がる。

見上げれば、古い雑居ビルの屋上に、あの長い竿が立っている。

風が吹いても揺れない。

昨夜、瓶の中で小さな音がした。

かち、と一度だけ。

確認すると、歯の中央の穴から、髪の毛ほど細い錆色の棒が生えていた。

棒は瓶の蓋を突き抜け、天井へ向かってまっすぐ伸びていた。

その夜から、眠るたびに上顎が少しずつ重くなっている。

今朝、舌で数えると、右上の奥歯が二本あった。

鏡の前で口を開けると、二本目の歯の中央には、すでに黒い穴が開いていた。

この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

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