都内のある公園では、夏のあいだに池の清掃が行われることがある。水に入った作業員が落ち葉や水草、沈んだごみを網で集め、青い容器へ移していく。木陰の多い池で、作業中も遊歩道を通る人は多く、岸のベンチから眺めている人も珍しくなかった。
その日も数人の作業員が池へ入り、昼前までに大きな網籠を何杯も空にしていた。水は膝から腿ほどの深さで、前日までの雨もなく、水位は朝からほとんど変わっていなかったという。
異変は、青い容器の側面に付いた泥だった。
水面より二十センチほど高い位置を、細い茶色の線が一周していた。容器は作業開始前に洗われている。水に浮かべて使っていたため、泥が付くなら水際より下のはずだった。
作業員が手袋で擦ると、線は簡単に落ちた。乾いた汚れではない。指の間で潰れるほど柔らかい、池底の泥だった。腐った葉の細片と、小さな貝殻まで混じっていたという。
隣に浮いていた別の容器にも、同じ線があった。
高さも同じだった。
二つを並べると、泥の筋は一本の水平線のようにつながった。容器の沈み方は違うのに、線だけは池の底ではなく、周囲の景色を基準にしているように同じ高さを通っていた。
念のため岸に置いてあった予備の容器を見ると、そこにも泥が付いていた。水には一度も入れていない新品だった。
しかも、その線を横へたどっていくと、岸辺の石にも、木の根にも、遊歩道脇の柵にも、同じ高さで細い茶色の筋が続いていた。
池の水面より上だった。
管理担当は、以前の増水時についた跡ではないかと考えた。しかし線は新しかった。指で触ればまだ湿っており、鼻を近づけると、底をさらった直後と同じ泥の匂いがした。
正午前、線の位置を測って印を付けた。
三十分後には、四センチ上がっていた。
池の水面は変わっていない。護岸に付けられた目盛りも、朝と同じ数字を示していた。それなのに泥の線だけが、木の幹や容器の側面をゆっくり上へ移動していた。
移動しているところを見た者はいない。
目を離して戻るたび、少し高くなっていたという。
作業はいったん中断された。池の中にいた者を岸へ上げようとしたころ、一人の作業員が「耳がおかしい」と言い始めた。
水から出ているはずの腰から下だけ、耳の奥へ圧が掛かるという。飛行機が降下するときのように鼓膜が押され、足を動かすと遠くで水を掻くような音が聞こえた。
その時点で泥の線は、作業員の腰近くまで上がっていた。
水面は膝の下にあった。
岸へ向かって歩く途中、作業員が網籠を拾おうとして前屈みになった。顔が泥の線より下へ入った瞬間、両手で喉を押さえて倒れた。
周囲には空気しかなかった。
それでも本人は、水中でもがくように腕を振った。口を開けても声が出ず、頬が膨らみ、鼻から透明な水が流れた。近くにいた二人が腕をつかみ、斜面の高い場所まで引き上げた。
泥の線より顔が上へ出た途端、激しく咳き込んだ。
口から出てきたのは唾液だけではなかった。黒い泥、水草の切れ端、それに池底でよく見つかる小さな巻貝が一つ、遊歩道の上へ転がったという。
作業員は救急搬送された。肺には少量の水が入っていた。
ただし、搬送先で採取された水について、どこから入ったのかは説明できなかった。本人は池へ顔を浸けていない。周囲にいた者も、それだけは全員が確認していた。
公園側は清掃を中止し、池の周囲から人を離した。
午後になると、泥の線はさらに高くなった。岸のベンチでは脚だけでなく座面の下まで濡れた筋が付き、樹木には地面から一メートルほどの高さまで、細かな水草が貼り付いていた。
近くにいた者は、その頃から音にも違和感を覚えたという。
泥の線より下で足を動かすと、靴底の音がしない。
代わりに、ちゃぷ、と水中で足を踏み出したような音が、少し離れた池の中央から聞こえた。
落ち葉を蹴っても、砂利を踏んでも同じだった。
線より下では、地面が何であるかに関係なく、水の音しかしなかった。
午後二時過ぎ、泥の線は上昇を止めた。
実際の水面から一メートル十八センチ上だった。
その高さより下にあるものは、見た目には乾いている。それでも触ると冷たく、手を長く置いていると皮膚が白くふやけた。池の外に置いてあった清掃道具も、柄の途中まで水に浸したような跡が付いていた。
一方、池そのものには変化がなかった。
水位も、水温も、流れも普段どおりだった。
夕方近くになると、泥の線は少しずつ薄くなった。翌朝には、木や石に付いていたもののほとんどが乾いて剥がれ落ちていた。清掃は数日延期され、その後は何事もなく再開されたという。
ただ、一つだけ処分できなかった物がある。
最初に異変が見つかった青い容器だ。
洗剤でも高圧洗浄でも泥の線が落ちなかったため、表面を削って確認したところ、泥が付着しているのではないことが分かった。
線より下の青い樹脂そのものに、細かな砂と枯葉の繊維が入り込んでいた。
製造時に混ざった異物ではない。切断した断面の内側まで、池底の泥と同じものが何層にも薄く入り込んでいたという。
その容器は現在、使用されていない。
倉庫の棚に伏せて保管されている。
清掃に参加した作業員の一人によれば、年に何度か点検のため持ち上げることがあるそうだ。
容器の下の床には、そのたび細い茶色の輪が残っている。
水漏れではない。容器は空で、倉庫にも水道はない。
ただ最近、その輪の位置が以前より少し外側へ広がった。
さらに棚の脚にも、床から数センチの高さに泥が付き始めたという。
作業員は、それを拭かないことにしている。
前に池で測ったときも、泥の線は拭くたびに少し高くなったからだ。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

