腹の下の客

写真怪談

蕎麦屋の入口に、狸の置物が二体置かれていた。

左の大きいほうは、よくある信楽焼の狸に見えた。腹が白く膨れていて、目の穴が黒く、古いのか表面の色がところどころ剥げている。右の小さいほうは、狸なのか、別の獣なのか、見ただけではよく分からない。白い着物のようなものを着て、膝を折り、何かを抱えるような格好で、左の狸より少しだけ店の奥を向いていた。

その店では、雨の日だけ入口の土間がひどく臭うのだという。

生乾きの暖簾でも、排水でもない。濡れた獣の毛を、熱い石の上に押しつけたような匂いが、戸を開けるたびにふっと鼻へ入る。店の人は、古い置物に水が染みているのだろうと言っていたが、置物をどけて掃除しても匂いは消えなかった。

最初に異変に気づいたのは、開店前に打ち水をしていた若い店員だった。

いつものように入口の外を流し、狸の足もとを雑巾で拭こうとしたとき、左の大きな狸の腹の下が、ほんの少し濡れていた。雨は上がっていたし、そこだけ庇の影で水が届かない。雑巾を差し込むと、ぬるりとした感触があった。

覗き込むと、腹の下の暗がりに、濡れた黒い毛のようなものが詰まっていた。

驚いて手を引っ込め、もう一度見ると、何もない。狸の腹の下にはコンクリートの床が見えているだけだった。ただ、雑巾には泥ではない黒い筋が一本こびりついていて、洗っても獣の匂いだけが残った。

それから店員は、入口を通る客をよく見るようになった。

不思議なことに、その置物の前で立ち止まる客がいる。暖簾をくぐる前に、左の狸の目を見て、それから右の像を見る。何かに気づいたように顔をしかめ、けれど何も言わずに入ってくる。そういう客は決まって、食べ終わる前に箸を置き、入口のほうを振り返った。

店の中からは、置物は見えない。

見えないはずなのに、客は皆、同じ場所を見る。暖簾の向こう、左の狸の腹の高さあたりを、じっと。

ある夕方、店員は閉店後に置物の位置を変えてみた。

左の大きな狸を少しだけ壁側へ寄せ、右の小さい像を手前に出した。重い置物で、ひとりでは動かせないと思っていたが、その日は妙に軽かった。腹の内側が空洞というより、中のものが一度抜けてしまったあとの軽さだった。

翌朝、二体は元の位置に戻っていた。

それだけなら、店主が直したと思えた。けれど左の狸の足もとに、灰色の小さなかけらが落ちていた。焼き物の破片ではない。指でつまむと柔らかく、乾いた皮膚のように薄い。店員が息を止めていると、右の像の顔が、昨日より少し左を向いていることに気づいた。

二体は向かい合っていた。

いや、向かい合っているというより、左の狸の腹の下を、右の像が横目で見ているようだった。

その日から、入口の匂いは強くなった。

昼でも、暖簾を上げると奥からではなく外から匂いが入ってくる。左の狸の腹の下だけ、影が濃い。陽が当たっているのに、そこだけ雨の夜みたいに黒い。客の子どもが一度、しゃがんでそこを覗き、「いる」とだけ言って泣き出した。

何が、とは誰も聞けなかった。

閉店後、店主は怒って、左の狸を店の裏へ運ぼうとした。店員も手伝った。二人で抱えた瞬間、狸の腹の内側から、湿ったものが押し返してきた。

焼き物の腹のはずだった。

硬い陶器のはずだった。

それなのに、抱えた腕に伝わったのは、息をこらえている生き物の腹だった。力を入れるたび、中で何かが丸まる。腹の奥から、骨のない大きなものが身をよじる。店主が悲鳴を上げて手を離すと、狸は床に落ちず、ほんの一瞬だけ浮いた。

その下に、人の顔があった。

人間の顔そのものではない。目も鼻もあるが、濡れた毛の奥に埋まっていて、輪郭がぐずぐずに崩れている。口だけがやけに大きく、歯のない赤い穴が、狸の腹の影の中でゆっくり開いた。声は出なかった。ただ、その口の中から、蕎麦つゆでも酒でもない、古い獣小屋の底のような臭い息が漏れた。

店主はその場にへたりこみ、店員は裏口まで逃げた。

しばらくして戻ると、狸は最初の位置に戻っていた。右の像も、何事もなかったように膝をついている。ただ、右の像の白い着物の裾に、黒く湿った汚れがついていた。まるで、腹の下から這い出ようとしたものを、そこで踏み止めたように。

翌日、店は臨時休業になった。

店主は置物を処分すると言った。だが業者が来る前に、左の狸の腹が割れた。大きな音はしなかった。朝、暖簾を出そうとした店員が見ると、腹の白い部分に縦の裂け目が入っていた。

その裂け目の内側は空洞ではなかった。

黒い毛がびっしり詰まっていた。毛の一本一本が湿って、陶器の内側に貼りついている。奥のほうで、何かがゆっくり身じろぎした。裂け目から覗く毛の間に、濁った目がひとつ、店員を見上げた。

店員は逃げた。

そのまま店を辞め、しばらく近づかなかった。数か月後、用事でその通りを通ったとき、蕎麦屋はまだ営業していた。入口には、左の狸と右の像が置かれていた。左の狸の腹は、きれいに直されていた。ひびも見えない。右の像も以前と同じように、膝をついている。

ただ、二体の距離が前より近かった。

左の狸の腹と、右の像の顔の間には、手のひらも入らない。右の像は笑っているようにも、見張っているようにも見えた。

店員は通り過ぎようとして、ふと足を止めた。

左の狸の腹の下から、白いものが少しだけ出ていた。

最初は紙くずだと思った。けれど、違った。それは小さな爪だった。人の爪より厚く、獣の爪より丸い。内側から床を掻くように、コンクリートに押しつけられている。

その爪が、ゆっくり引っ込んだ。

入口の暖簾が揺れた。店内からは誰も出てこない。風もない。右の像の目だけが、ほんの少し濡れて見えた。

その蕎麦屋の入口では、今でも雨上がりだけ、獣の匂いがするらしい。

そして左の狸の腹の下を覗いた客は、二度とその店に入らないという。覗かなかった客だけが、何も知らずに暖簾をくぐる。

腹の下で、何かが順番を待っている。

この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

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