その鳥居は、駅から少し離れた路地の植え込みにあった。
神社にあるような大きなものではない。鉢を囲うように据えられた、小さな鳥居だった。赤く塗られたスプレー缶を組み合わせて作られていて、表面には誰が貼ったのかわからないステッカーがびっしり貼られている。虎の顔、白いハート、落書きのような文字、火と書かれた札、読み取れるのか怪しいQRコード。
通勤でそこを通る人たちは、ほとんど気にも留めていなかった。ただ、近くの雑貨店で働く佐伯さんだけは、そのスプレー缶の鳥居を見るたびに少し嫌な感じがしたという。
嫌だったのは、ステッカーが増えることではない。
減っていたのだ。
朝にはあったはずのステッカーが、昼にはない。けれど剥がされた跡が残らない。赤い塗装は、最初から何も貼られていなかったようにつるりとしている。
ある雨上がりの朝、佐伯さんは開店前に店の前を掃いていた。ふと植え込みのほうを見ると、スプレー缶の鳥居の中央に、見覚えのない白い札が貼られていた。
手描きのような丸い顔。片目だけ大きく開いている。子どもの落書きみたいだったが、その下に小さな字で、佐伯、と書いてあった。
名字だけなら偶然かもしれない。
けれど、その字は佐伯さん自身の筆跡に似ていた。領収書に書く時の、少し右へ流れる「伯」の字。その癖まで同じだった。
触って確かめようとした時、植え込みの葉が、鳥居の内側からひとつだけ揺れた。風は通っていなかった。
葉の裏に、白いものが貼りついていた。
ステッカーだった。
さっきまで鳥居にあったはずの、佐伯と書かれた札が、葉の裏側へ移っていた。紙ではない。濡れた薄い皮膚のように、葉脈に沿ってぴったり張りついている。佐伯さんが指先でつまむと、ぬるりと温かかった。
驚いて手を引くと、札の端が少しだけめくれた。
その下に、もう一枚あった。
同じ顔。同じ字。同じ「佐伯」。
佐伯さんは店に戻り、その日は植え込みに近づかなかった。夕方、閉店の準備をしていると、レジ横のメモ帳に白いものが貼られているのを見つけた。
それは、あの札だった。
丸い顔は朝よりも少し鮮明になっていた。片目だけ開いていたはずなのに、今は両目が開いている。下の名前までは書かれていない。ただ、名字の横に小さな数字が増えていた。
佐伯 1
佐伯さんは気味が悪くなって、札を剥がそうとした。ところが剥がれない。紙の上に貼られているのではなく、メモ帳の繊維そのものが白く変色しているようだった。
仕方なく、そのページごと破って捨てた。
翌朝、店に来ると、メモ帳は昨日と同じ位置にあった。
破ったはずのページも戻っていた。
札の数字だけが変わっていた。
佐伯 2
その日から、数字は一日ひとつずつ増えた。佐伯さんはメモ帳を捨てた。新しいものを買った。レジ横から紙という紙を片づけた。それでも白い札はどこかに出た。
値札の裏に。
ショップカードの束の一枚目に。
宅配伝票の控えに。
そして四日目、佐伯さんは自分の左手首に、それを見つけた。
最初は絆創膏の跡かと思った。手首の内側に、白く四角い痕が浮いていたのだ。こすっても消えない。皮膚の中に、紙の繊維が沈んでいるようなざらつきがある。
鏡に近づけると、薄い字が読めた。
佐伯 4
その夜、佐伯さんは帰り道を変えた。あの鳥居のある路地を避け、遠回りして家へ帰った。けれどマンションの集合ポストの前で、足が止まった。
自分の部屋番号のポストにだけ、赤い丸いステッカーが貼られていた。
あの鳥居にあった、火と書かれた札だった。
触れる前から、内側で何かがこすれる音がした。紙を剥がす音ではない。濡れた葉を指でめくるような音だった。
翌朝、佐伯さんは出勤しなかった。
雑貨店の店主が心配して電話をかけたが、呼び出し音の途中で、かすかにぱり、ぱり、と粘着面の剥がれる音が混じったという。声はなかった。
その日の昼、店主はあの鳥居を見に行った。
ステッカーは相変わらずたくさん貼られていた。虎の顔、白いハート、落書きの文字、火の札、QRコード。
その中に、白い札が一枚増えていた。
丸い顔は、もう落書きではなかった。髪の分け目、頬のほくろ、目の下の小さなくぼみまで、佐伯さんによく似ていた。
下にはこう書かれていた。
佐伯 0
店主はぞっとして、鳥居から目をそらした。
その時、植え込みの葉が一斉に裏返った。
葉の裏には、まだ名前のない白い札が何十枚も貼りついていた。どれも四角く、湿っていて、まだ誰の顔にもなっていない。ただ、端のほうだけが少しずつめくれ、スプレー缶の鳥居のほうへ戻ろうとしていた。
数日後、佐伯さんの部屋は管理会社によって開けられた。
中に本人はいなかった。
床にも、風呂場にも、ベランダにも、争った跡はなかった。ただ玄関の内側に、一枚だけ赤いステッカーが貼られていた。
火、と書かれていた。
その下に、小さなQRコードがあった。警察官が試しに読み取ると、何も表示されなかった。ただ画面が一瞬だけ真っ白になり、そのあと、スマートフォンの背面に薄い四角い痕が浮いた。
翌日、その警察官は手首に湿布を貼っていたそうだ。
白い湿布の端に、本人の名字が印刷されていた。
数字は、まだ1だった。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

