お盆が明けたばかりの午後だった。ある空港では、駐車場とターミナルを結ぶ連絡通路を、まだ大勢の旅行者が行き来していた。通路は全面に近いほどガラス張りで、駐車場側から見上げると、曇った空を背に歩く人たちが黒い影絵のように見える。少し離れた建物の向こうには管制塔があり、通路の窓にはキャリーケースを引く人や、肩に荷物を掛けた人の輪郭が次々に横切っていた。
施設管理の作業員が呼ばれたのは、午後三時を少し過ぎたころだった。駐車場を巡回していた警備員から、「通路の窓に、ずっと動かない人がいる」と連絡が入ったという。
見上げると、確かに人影があった。
窓は金属の枠でいくつもの縦長の区画に分かれている。その中央付近、通路を歩く人々の腰から上がよく見える高さに、ひとつだけ黒い影が残っていた。頭と肩らしき膨らみがあり、人が横向きに立っているようにも見える。だが、その前を何人もの旅行者が通り過ぎても、その影だけは動かなかった。
作業員は連絡通路へ上がった。警備員に駐車場から見てもらいながら、影があるという窓まで歩いたが、そこには誰もいなかった。柱の陰にも、自販機の脇にも、人が隠れられる場所はない。問題の窓も汚れてはおらず、内側から見る限り、外の駐車場と灰色の空が普通に透けて見えた。
「まだいます」
無線から警備員の声が返ってきた。
作業員は窓へ顔を近づけた。反射なら、自分の姿が何かと重なって見えている可能性がある。そう考えて左右へ動いてみたが、下にいる警備員によれば、人影はその間も同じ場所に立っていたという。作業員が窓から離れても、しゃがんでも、影の形は変わらなかった。
そこで内側と外側の同じ位置に、小さな養生テープを貼った。二枚の目印が重なるようにして、どの面に汚れがあるのか確かめるためだった。
駐車場へ戻り、斜め下から見上げた作業員は、しばらく何も言えなかったという。
黒い人影は、二枚のテープのどちらとも重なっていなかった。
見る角度を変えると、内側のテープ、黒い人影、外側のテープという順番で、ほんのわずかに位置がずれた。窓は二重ガラスだった。つまり影が見える位置は、通路側でも屋外側でもない。
二枚のガラスの間だった。
ちょうどそのとき、駐車場からターミナルへ向かう旅行者が三人、通路へ入ってきた。窓越しに、その姿が一枚目、二枚目と枠を横切っていく。三人目の影が、動かない人影と重なった瞬間だった。
黒いものが消えた。
警備員が声を上げるより先に、隣の窓枠から同じ人影が現れた。ただし、旅行者たちが進んだ方向とは逆だった。ターミナル側ではなく、駐車場側へ一枚分だけ移っている。
それから二人で見ているあいだに、同じことがもう一度起きた。誰も通らないあいだ、人影はまったく動かない。だが旅行者の影が重なると、その姿に隠れるように消え、次の窓へ移る。
生きている人間の影を使わなければ、窓枠を越えられないように見えたという。
連絡通路は一時的に片側通行へ切り替えられた。事情は利用者には伝えず、設備点検ということにした。人影がいる側を避けて通すようにしたが、完全に人の流れを止めることはできなかった。
夕方になるころには、人影はさらに二枚、駐車場側へ近づいていた。
しかも形が変わり始めていた。最初は頭と肩だけだったものに、腕らしき細長い部分が現れていた。横向きだった姿勢も、少しずつ正面へ向いている。窓の中を歩いているというより、狭い隙間の中で身体を捻りながら、こちら側へ顔を向けようとしているようだった。
ガラス業者が到着したころ、通路の利用者はかなり減っていた。問題の窓を内側から照明で照らしても、人影は消えなかった。表面を拭いても変化はない。二重ガラスの密閉部分には曇りも水滴もなく、異物が入り込んだ形跡も見つからなかった。
その夜、通路を完全に閉鎖してから、影のある窓を取り外すことになった。
最後の利用者がターミナル側へ消え、通路から人がいなくなると、人影は駐車場寄りから二枚目の窓で止まった。作業員たちは、そこから先へ誰も歩かせなかった。影も動かなかった。
窓枠を外し、大きなガラスユニットを吸盤で支えながら持ち上げた。枠から完全に抜けた瞬間、駐車場で見ていた警備員が手を振った。
人影が消えたのだという。
取り外したガラスは、そのまま作業場へ運ばれた。
二重ガラスは、二枚のガラスのあいだに細い空間を残して密閉する構造になっていた。外側にも内側にも汚れはなかったため、業者は周囲の接着部分を切り、二枚を分離した。
そこで作業が止まった。
二枚とも、これまで外気に触れていなかった面が汚れていた。
片方には、額、鼻、胸、腹、太腿らしき形の曇った跡が残っていた。もう片方には、後頭部、背中、腰、ふくらはぎに見える汚れがほぼ同じ位置に付いていた。
向かい合わせに戻すと、一人分の身体になった。
人が二枚のガラスの間に入り、正面と背中をそれぞれの面へ押しつけたような跡だった。ただ、その隙間は指一本ほどしかない。
汚れの正体は分からなかった。黒い部分は煤のようにも皮脂のようにも見えたが、布で拭くと簡単に薄くなった。ただし、肩の高さにあった五本の細い筋だけは消えなかった。
傷だった。
二枚のガラスの内側に、ほぼ同じ位置、同じ長さの傷が五本ずつ入っていた。片方は右へ、もう片方は左へ湾曲している。二枚を元の間隔で向かい合わせると、それぞれの傷の先端がぴたりと重なった。
まるで狭い隙間の中から、両方のガラスへ同時に爪を立てたようだったという。
交換した窓では、それ以降同じ人影は見つかっていない。
取り外された二枚のガラスは処分されなかった。業者も施設側も引き取りを嫌がり、現在は資材保管庫の奥に置かれている。内側だった面を互いに向け、金属の枠で固定したうえから、光を通さない梱包材で包まれているそうだ。
二枚の間隔だけは、元の窓と同じ幅に保たれている。
広げても、狭めてもいけないことになっている。
理由について、当時立ち会った作業員は説明しない。ただ一度だけ、保管庫の整理で固定具を外しかけた職員に、こう言ったという。
「あいだを空けないでください。そこは、空いている場所じゃないんです」
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

