その朝、山あいの町で開かれる秋祭りの準備をしていた男性が、市庁舎の正面玄関前へ呼ばれたそうです。
そこには、その年だけ設けられた小さな追悼ブースがありました。午前十時から午後七時まで、二日間だけ開かれる場所で、前年まで祭りへ毎年のように姿を見せていた、地元出身のバンドメンバーを偲ぶためのものだったといいます。
彼はその年の初めに亡くなっていました。
生前は祭りへの支援も続けていて、その年も彼の名と、長年一緒に活動してきた仲間たちの名で、百万円が贈られていました。ブースには、彼にゆかりのある御輿と何枚かの写真パネルが置かれていたそうです。
男性の仕事は、来場者の案内と展示物の見守りでした。
午前十時を少し回ったころ、最初の異変がありました。
匂いがしたそうです。
煙の匂いではありません。もっと青く、苦く、折った茎から汁が滲んだ時のような、植物の生々しい匂いでした。
男性には何の匂いか分かりませんでしたが、同じ係にいた年配の人が、しばらく鼻を鳴らしたあと、「昔の葉っぱだね」と言ったそうです。
その町では、かつてある作物の葉を大量に育てていました。収穫したばかりの葉を納屋へ運ぶと、手にも服にも、青臭く粘るような匂いが付いたのだといいます。
けれど、市庁舎の周囲にその植物はありません。追悼ブースにも、生花すら置かれていませんでした。
昼近くになると、匂いは消えました。
人が増え、写真を撮る者や、御輿を眺めて立ち止まる者が絶えなくなりました。亡くなったバンドメンバーを知っているらしい人も多く、写真パネルの前で黙って頭を下げていく者もいたそうです。
午後六時を過ぎると、人通りは少しずつ減りました。
そのころ、また青い匂いが戻ってきたといいます。今度はブース全体ではありませんでした。
御輿の裏側だけでした。
男性が覗き込むと、床に緑色のものが落ちているように見えました。拾おうとして手を伸ばしましたが、何もありません。
ただ、床を指で触れると、指先にわずかな粘りが残ったそうです。
午後七時、初日の展示を終え、写真パネルに布を掛けようとした時、男性は一枚のパネルの中に何かが挟まっていることに気づきました。
透明板と写真の間でした。
細長い、青い葉が一枚入っていました。
設営した時にはありませんでした。透明板は四隅を金具で固定してあり、表側から何かを差し込める隙間もなかったそうです。
年配の係員は、その葉を見るなり、「これだよ」と言いました。朝からしていた匂いの葉だというのです。
まだ切られて間もないように瑞々しく、中心の太い葉脈を折ると汁が出そうなほどだったといいます。
誰かの悪戯だろうという話になりました。しかし、祭りの最中に展示を分解するわけにもいかず、その晩はパネルごと布を掛けて保管されました。
翌朝、布を外すと、葉はまだ青いままでした。
十時間以上、透明板の中に挟まれていたはずなのに、端すら丸まっていませんでした。
その日も午前十時にブースは開きました。
妙なことに、来場者が増えるほど、葉の色は鮮やかになっていったそうです。昼過ぎには、前日より濃い緑色になっていました。
そして写真パネルの前で長く立ち止まる人がいると、その人が離れたあとだけ、あの青い匂いが残ったといいます。
泣いている人のあとにも。
笑いながら昔の話をしていた人のあとにも。
小さく「また来るね」と言って帰った人のあとにも。
匂いだけが、しばらくそこに残りました。
その日の午後六時半ごろ、年配の係員が、ふと妙なことを言ったそうです。
「去年は、ここに本人がいたんだよな」
前年の祭りにも、そのバンドメンバーは病気を抱えながら姿を見せていたそうです。
長くはいられなかったものの、人前へ出て、また戻ってくるという意味の言葉を残して帰ったのだといいます。
年配の係員は、それ以上何も話しませんでした。
ただ、透明板の中の葉を見ていました。
午後七時、二日間の追悼ブースは終了しました。
人が途切れ、周囲の照明が一つずつ落とされていきました。遠くではまだ祭りの音が残っていましたが、市庁舎前だけは急に静かになったそうです。
そこで、男性たちは写真パネルを外すことにしました。
四隅の金具を緩め、透明板を持ち上げました。
中にあったはずの葉はありませんでした。
床にも落ちていません。裏板との間にもありません。
代わりに、透明板の内側へ、緑色の染みだけが残っていました。葉を押しつけたような輪郭でした。
ただし、その形は少し妙でした。
葉の中央付近だけ、丸い跡が二つ並んでいたそうです。直径は一センチほど。どちらも緑色の染みがそこだけ途切れ、何度も同じ場所を軽く叩いたように、透明な円になっていました。
男性の一人が拭こうとしました。
年配の係員が止めたそうです。
「それ、今日はそのままでいいよ」
理由は言いませんでした。
パネルは布に包まれ、ほかの展示物と一緒に倉庫へ運ばれました。
数日後、職員が透明板を洗おうとしたそうです。
水でも落ちませんでした。洗剤でも、アルコールでも消えません。表面を触れば何の凹凸もないのに、緑色の輪郭だけが透明板の内部へ染み込んだように残っていました。
そこで透明板そのものを交換することになりました。
古いものは処分せず、倉庫の隅に立てかけておいたそうです。
それからしばらくして、祭りとは関係のない日に倉庫を開けた職員が、「何か草の匂いがする」と言いました。
調べても植物はありませんでした。ただ、あの透明板だけが、少し曇っていたそうです。
緑色の葉の輪郭は、もうほとんど見えなくなっていました。
代わりに、二つあった丸い跡のうち、一つだけが残っていました。
もう一つがいつ消えたのかは分かりません。
透明板を最後に確認した日付も、記録には残されていないそうです。
次の祭りで、その板がもう一度使われるのかも決まっていません。
ただ、倉庫を開けた時、ときどき青い葉の匂いがすることだけは、今も何人かが知っているといいます。
そして、その匂いがした日だけは……
誰も、残った最後の丸い跡を拭こうとはしないそうです。
何かを叩くための先端が、もう一度そこへ触れるまで待っているようにも見えるから……そんな話を聞きました。
この怪談は、以下の記事をきっかけに生成されたフィクションです。
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