八月の台風が島を横切った夜、沿岸部では五万棟を超える建物が停電したそうです。
最大瞬間風速は、時速二百十六キロ。
避難所になった古い体育館でも、午後九時を過ぎるころには照明が落ち、非常灯だけが床を青白く照らしていました。
そこへ避難していた親子がいたそうです。
母親と、小学二年生の娘です。
二人の家は海から少し離れた集合住宅にありましたが、窓ガラスが古かったため、早めに避難してきたといいます。
体育館の窓はすべて閉められていました。
出入口にも厚い防風扉があり、外の風はほとんど入ってこなかったそうです。
それでも、娘は何度も天井を見上げていました。
「おばあちゃんが、洗濯物を取り込んでる」
そう言ったそうです。
母親は聞き流しました。
娘の祖母は、前年の冬に亡くなっていました。
台風が来るたび、ベランダへ出ては家族の洗濯物を急いで取り込む人だったといいます。
特に子どもの服だけは、風に飛ばされないよう、洗濯ばさみを二つずつ付ける癖がありました。
午後十時すぎ。
体育館の端に張られていた一本のロープが、ふと揺れ始めました。
濡れたタオルを乾かすため、避難者が使っていたものです。
けれど、その時には何も掛かっていませんでした。
ロープだけが、ゆっくり上下していたそうです。
外では、風が建物の壁を叩いていました。
しかしロープの揺れ方は、それとは合っていませんでした。
右へ。
少し戻って。
また右へ。
誰かが洗濯物を一枚ずつ掛けている時のような、小さな揺れだったといいます。
その下へ、娘が歩いていきました。
床から何かを拾い、母親へ持ってきました。
青い洗濯ばさみでした。
古いもので、片側だけが白く色褪せています。
母親はしばらく何も言わなかったそうです。
祖母の家で使っていたものと、よく似ていたからです。
ただ、それだけなら同じ製品はいくらでもあります。
母親はその洗濯ばさみを荷物のポケットへ入れました。
二十分ほどすると、娘がまた一つ拾いました。
同じ青色でした。
今度のものには、金属部分に小さな錆がありました。
祖母は昔、洗濯ばさみを捨てる時に迷わないよう、傷んだものへ油性ペンで丸印を付けていたそうです。
その洗濯ばさみにも、薄い丸が残っていました。
母親は、今度はそれを捨てませんでした。
二つを並べて、娘の枕元へ置いたそうです。
深夜になると、停電の範囲がさらに広がったという知らせが入りました。
体育館の中は暑く、眠れない人も多かったといいます。
ところが娘だけは、毛布にくるまりながら静かに眠っていました。
その額には、時々、細い髪が揺れていました。
風などないはずでした。
母親が手を伸ばすと……
娘の頬の横だけが、少し涼しかったそうです。
まるで、誰かが団扇でゆっくり扇いでいるような冷たさでした。
その時、体育館の端で音がしました。
ぱちん。
洗濯ばさみを留める音でした。
続いて、もう一度。
ぱちん。
母親が非常灯のほうを見ると、何も掛かっていなかったロープに、白いハンカチが一枚だけ下がっていました。
両端を、青い洗濯ばさみで留められていました。
母親は娘の枕元を確かめました。
そこに置いたはずの二つが、なくなっていました。
白いハンカチには見覚えがありました。
娘が幼稚園へ通っていたころ、祖母が名前を書いて持たせていたものだったそうです。
けれど、それは祖母の葬儀のあと、棺の中へ入れたはずでした。
母親はロープから外そうとしました。
その時だけ、体育館の中を強い風が通りました。
窓も扉も閉じたままでした。
毛布が少し浮き、紙袋が床を滑り、非常灯の吊り紐が一斉に揺れたそうです。
けれど白いハンカチだけは動きませんでした。
二つの洗濯ばさみに、しっかり留められていました。
娘は眠ったまま、小さな声で言いました。
「もう飛ばないから、大丈夫だって」
誰に言われたのか。
翌朝聞いても、娘は覚えていなかったそうです。
夜明けすぎ、風は弱まりました。
避難していた人々も、少しずつ家へ戻り始めました。
母娘の集合住宅では、ベランダの物干し竿が折れていました。
植木鉢もいくつか割れ、雨戸の一部も外れていたそうです。
ただ……
娘の部屋の窓だけは無傷でした。
窓の外側に、白いハンカチが一枚張り付いていました。
両端を留めていたのは、二つの青い洗濯ばさみでした。
体育館から持ち帰った覚えはありません。
ハンカチは雨にも濡れていませんでした。
そして中央には、祖母の字で娘の名前が書かれていたそうです。
母親は、その三つを今も捨てずに持っています。
ただ、不思議なことが一つあります。
台風が近づく夜になると、箱の中から、ときどき……
ぱちん。
ぱちん。
二度だけ、洗濯ばさみを留める音がするそうです。
箱を開けても、何も変わってはいません。
二つの洗濯ばさみが、白いハンカチの端を挟んでいるだけです。
それ以来、娘の服が風に飛ばされたことは一度もないといいます。
誰が今も取り込んでいるのかは……
確かめないままにしているそうです。
……そんな話を聞きました。
この怪談は、以下の記事をきっかけに生成されたフィクションです。
Typhoon Dolphin hits Japan’s Okinawa, China shuts ports ahead of landfall
reuters.com
