七月七日の昼、ビルの入口に置かれた笹飾りは、少し乾いていた。
造花の明るい花束と、細い笹の葉と、色とりどりの短冊。台の上には小さな籠があって、前に貼られた紙には「願い事を書いてみませんか?」と、やわらかい字で書かれていた。
その建物の人たちは、通るたびに一枚ずつ短冊を書いた。
「国試合格できますように」
「五万円くらいください」
「腰の痛い母が、今夜よく眠れますように」
夕方になると、入口の掃除をしていた管理人が、妙なことに気づいた。笹の右側だけ、葉が短冊を避けるように曲がっている。風はない。自動ドアも閉まっている。それなのに、誰かのために書かれた短冊のそばだけ、細い葉先がそっと寄り、青い紐を抱くように絡んでいた。
ほどこうとして、管理人は手を止めた。
結び目が、温かかったのだ。
翌朝、その短冊を書いた女性が入口で小さく頭を下げていた。母親が久しぶりに朝まで眠れたらしい。偶然だろう、と笑いながら、女性はもう一枚だけ短冊を書いた。
「この笹も、あまり無理しませんように」
その夜、笹飾りは誰も触っていないのに、ほんの少しだけ左へ傾いた。乾いた葉が、籠の中へ一枚落ちていた。拾い上げると、葉の裏に細い青い跡が残っていた。まるで短冊の紐を、ずっと結んでいた指の跡のようだった。
七夕が終わり、飾りを片づけることになった。短冊を外していくと、不思議なことに、誰かのために書かれた願いだけ、紐の結び方がみんな同じになっていた。固結びでも蝶結びでもない。笹の葉を一度くぐらせ、最後に小さく折り返す、見たことのない結び方だった。
最後の一枚は、籠の底にあった。
白い短冊だった。誰も書いていない。けれど端だけが少し湿っていて、触れると、夏の夕方の体温みたいに温かかった。
管理人はそれを捨てずに、笹のいちばん低いところへ結んだ。願い事はない。名前もない。ただ、空白の短冊が風のない入口で、かすかに揺れていた。
それから毎年、七月七日が近づくと、その建物の入口には小さな籠が置かれる。
誰が用意したのかは、今もはっきりしない。
ただ、願い事を書いた人の中には、帰り道でふいに手のひらが温かくなる人がいるという。
短冊を結んだ覚えのない小さな結び目が、指先に一瞬だけ残るらしい。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

