その避難所では、台風が近づく前の日から、床に青い養生テープで区画が作られていたそうです。
週末にかけて南の島々へ近づき、その後、西から東の太平洋側へ寄るおそれがある。そう告げられたため、町の公民館には高齢者と、小さな子を連れた家族が先に集められていました。別の台風は、やがて勢いを弱める見込みだと、壁の掲示に小さく書かれていたそうです。
その朝、まだ館内のざわめきが落ち着かない時間でした。
建物全体が、下から叩かれたように揺れました。震源は北の沖合。規模の大きな地震だった、とだけ記録には残っています。津波被害の心配はない、という言葉が、繰り返しラジオから流れていました。
最初の異変は、配布名簿でした。
受付の机に置かれていた紙の名簿に、誰も書いていない行が一つ増えていたそうです。名前の欄には何もなく、住所の欄にだけ「沖」とありました。避難理由の欄には「揺れのあと」。係の人は、紙がずれたのだろうと、上から別の紙を重ねました。
けれど、上の紙にも同じ行が透けて出たそうです。
そのころから、床が濡れはじめました。雨漏りではありません。入口にも窓にも吹き込みはないのに、青いテープで囲った区画の内側だけが、ぬるい海水のように湿っていく。拭くと、雑巾に砂が残りました。海から離れた、山側の公民館だったそうです。
昼前には、配布用の毛布の数が合わなくなりました。余るはずの毛布が、配るたびに一枚足りなくなる。最後に倉庫を見に行くと、未使用の毛布が一枚、床に広げられていたといいます。
その上には、誰かが濡れた体で横になったような跡がありました。
頭の位置はなく、足の位置もありません。ただ、背中の幅だけが、黒く湿っていました。係の人が毛布を畳もうとすると、内側から砂が落ちました。砂の中に、小さな紙片が混じっていたそうです。
「津波被害の心配はありません」
そう印刷された注意文の、後半だけでした。
夕方になると、名簿の空欄は少しずつ増えていました。名前の欄は空白のまま、住所の欄にはすべて「沖」。避難理由の欄には、すべて「揺れのあと」。
不思議なことに、その空欄のぶんだけ、床の濡れ方が人の形に近くなっていきました。
膝を抱える形。横向きに眠る形。手をついて起き上がろうとする形。誰も座っていない区画に、順番に湿りが残る。そこへ近づくと、床下から風の音がしました。台風の風ではなく、口を閉じたまま大勢で息を吸うような音だったそうです。
夜になり、強い雨が屋根を叩きはじめました。
避難所の灯りが一度だけ暗くなったとき、名簿の最後に、また新しい行が現れました。今度は住所欄も避難理由欄も空白でした。ただ、名前の欄にだけ、受付をしていた係の人の名前が、濡れた字で書かれていたそうです。
その人はまだ机の前にいました。
けれど、足元の床だけがもう黒く湿っていました。本人が一歩下がると、湿った跡も一歩下がった。二歩下がると、二歩下がった。まるで床の下にいる別のものが、同じ足の位置を下からなぞっているようだったといいます。
その直後、館内放送が鳴りました。
「津波被害の心配はありません」
録音ではありませんでした。誰の声でもありませんでした。声は床の濡れた区画から、ひとつずつ上がってきたそうです。
「では、これは何の水ですか」
避難者たちは、朝まで体育室のステージ上で過ごしました。床には降りられなかったそうです。雨は明け方に弱まり、揺れもおさまりました。公民館の外は、多少の枝折れがあるだけで、浸水もありませんでした。
ただ、体育室の床には、青いテープの区画ごとに白い砂が薄く残っていました。
そこに足跡はありませんでした。代わりに、区画の中央へ向かって、濡れた指の跡がいくつも這っていたそうです。すべて床板の隙間から出て、名簿の置かれていた受付机へ向かっていました。
名簿は回収されました。
けれど最後の一枚だけは、町の記録に残っていないといいます。見た人の話では、最後の行に、こう書かれていたそうです。
「配布済」
避難所にいた人数は、朝になっても変わっていなかったそうです。誰も減っていない。誰も増えていない。だから、何が配られ、誰が受け取ったのか、今も確かめようがないのです……そんな話を聞きました。
この怪談は、以下の二つの記事をきっかけに生成されたフィクションです。
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