坂の多い住宅地に住んでいると、道というより、建物と地面のあいだを無理に通されているような階段に出くわすことがある。
その階段もそうだった。片側は古い護岸のような黒い壁で、もう片側は家の裏側。配管と室外機と、誰にも踏まれない草だけが、細い底に溜まっていた。昼でも薄暗く、上から覗くと、そこだけ都市の余白ではなく、都市が消化しきれなかった内臓みたいに見えた。
猫か狸か、そういうものだと頭が勝手に決めた。
室外機の奥、配管が何本も横切る下に、黒っぽい背中のようなものが丸まっていた。猫にしては大きく、狸にしては細い。毛皮というより、濡れた苔を指で逆撫でしたような表面で、動かないのに、周りの草だけがゆっくり倒れていく。
私は手すり越しに、しばらく見下ろしていた。
その何かは顔を上げなかった。けれど、こちらを見ているのは分かった。目があるからではない。草の倒れ方が、私の立っている位置に合わせて変わったからだ。一本ずつ、葉がこちらを向く。配管の丸い継ぎ手まで、いつの間にか正面を向いていた。
風はなかった。
階段の上を誰かが通る音も、遠くの車の音もしていたのに、その隙間の底だけが無音だった。音が届かないのではなく、底へ落ちた音が、何かの腹の中で吸われているようだった。
私は一段だけ降りた。
その瞬間、黒いものがほどけた。
走ったのではない。跳ねたのでもない。体の輪郭が、配管のあいだを水みたいに細くなって、室外機の裏から壁際へ移った。四本足の動物なら、足を置く場所が要るはずなのに、そいつは場所を使っていなかった。隙間そのものの幅を、内側から撫でるように移動した。
背中だと思っていた部分の下に、白いものが見えた。
腹だった。
ただし、腹の真ん中に縦の裂け目があった。口のように開いているわけではない。閉じた傷跡のような線が、ゆっくり上下していた。呼吸に似ていたが、吸っているのは空気ではなかった。あたりの暗さを、少しずつ吸っているようだった。
私は階段を上がろうとした。
そのとき、足元の鉄板が冷たく鳴った。
隙間の底から、何かが見上げていた。今度は確かに顔だった。けれど動物の顔ではない。護岸の黒ずみ、室外機の影、配管の丸い蓋、草の隙間、それらがたまたま並んで顔に見える、という程度の顔。だからこそ、目をそらせなかった。
顔に見える配置のまま、それは少しずつ大きくなった。
底から上がってくるのではない。こちらの高さに合わせて、隙間全体がせり上がっている。配管が曲がっていく。草が押し潰される。室外機の天板が、内側から膨らむように軋む。
それでも音はしなかった。
私の耳に届いているはずの金属音も、草の擦れる音も、全部消えていた。ただ、自分の喉の奥だけで、細い息が詰まっていた。
黒いものが、階段のすぐ横まで来た。
手すりの影に、湿った鼻先のようなふくらみが触れた。そこには何もないはずだった。手すりの外は空間で、その下に細い隙間があるだけだ。なのに、鉄の横棒が内側から押されるように、ほんの少し、こちらへたわんだ。
私は逃げた。
走ったのに、階段はやけに長かった。一段上がるたびに、背中の下で草が倒れる気配がする。見てはいけないと思いながら振り返ると、隙間の底は元に戻っていた。室外機も、配管も、草も、写真のように静かに収まっている。
ただ、配管の継ぎ手だけが違った。
丸い蓋が、全部こちらを向いていた。いくつも並んだ小さな灰色の円が、階段の上の私を見ていた。円の中心には、さっきまでなかった細い縦傷が一本ずつ入っていた。
翌朝、管理会社の人が階段の脇に来ていた。
「昨日、何か落としました?」
そう聞かれて、私は首を振った。
隙間の底の草が、楕円形に押し潰されていた。獣が寝た跡に似ていたが、そこには足跡がなかった。代わりに、室外機の吹き出し口の金属フィンが、内側から外へ向けて何本も曲がっていた。
まるで、あの腹の裂け目が、そこから一度出てきたみたいに。
その日から、私はその階段を使っていない。
けれど、別の道を歩いていても、ビルと塀のあいだ、民家と擁壁のあいだ、駐車場の奥の排水管のあいだに、同じ暗さを見つけることがある。
そこは必ず静かだ。
そして、配管の丸い蓋がこちらを向いている。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです


