そのビルの裏手には、白い外壁に白い配管が何本も這っている。
太い縦管、横へ逃げる管、壁に食い込む継手、黒ずんだ汚れ。日差しの強い昼間に見ると、何もかも乾いていて、怪しいところなどない。車道の向こうには人通りもあり、信号待ちの声も、車の音も、木の葉の揺れる音も届いてくる。
それでも、設備管理の高野さんは、あの配管の前を通るのが嫌だったそうだ。
最初に気づいたのは、横管の下についた黒い筋だった。
雨だれなら下へ流れるはずなのに、その筋だけ、先端が上を向いていた。細い汚れが何本も並び、まるで配管の中へ吸い戻されようとしているように、途中でふっと細くなる。
昼の巡回でそこを通った時、道路の音が一瞬だけ消えた。
車は走っている。人も歩いている。信号の電子音も鳴っているはずだった。なのに、白い継手の前に立った瞬間、耳の奥を指で塞がれたみたいに、外の音がすべて遠のいた。
代わりに、管の中から、すう、と短い音がした。
水音ではない。空気を吸う音だった。
高野さんは顔を近づけた。配管の表面は熱くなかった。日を浴びているのに、白い樹脂だけが異様に乾いていて、触ると手の脂を持っていかれるようだった。指を離すと、触れた場所に白い粉がついた。
外壁の粉だと思った。
けれど、それは配管の外側ではなく、継手の合わせ目から吹き出していた。いや、吹き出しているのではない。合わせ目の隙間へ、壁の粉が細く吸い込まれていた。
翌日、高野さんはその継手に鉛筆で小さな印をつけた。
丸いフランジの端と、壁のひびにまたがるように、線を一本。配管が動けば、ずれる。動かなければ、そのまま残る。そういうつもりだった。
次の日、線はずれていなかった。
ただ、半分だけ足りなかった。
配管側に引いたはずの鉛筆の跡が消え、壁側だけに残っていた。消えたのではない。配管の白い表面には、鉛筆の芯を削ったような灰色の粉が、継手の隙間へ向かって集まっていた。
管が、線の半分を吸ったのだ。
そのころから、昼になると小さな異変が増えた。
壁に落ちる配管の影が、ほんの少しだけ実物より細くなる。横管の下の黒い筋が、掃除しても同じ本数で戻る。縦管を留めている金具の周りに、古い輪の跡が浮く。配管は動いていないのに、以前はそこに別の太さの管があったような、白い円形の痕だけが増えていく。
一番気味が悪かったのは、信号が変わるたびに起きる現象だった。
道路の向こうから人が渡ってくる。何人も、何人も。配管は何も変わらない。けれど人の流れが途切れる瞬間、横管の黒い筋が、かすかに一本増える。
雨でもない。排水でもない。
昼の通行人が一人、あの壁の前を通るたび、管が何かを数えている。
高野さんは上司に報告した。すると、配管図を確認することになった。外壁の配管は、古い排水管の名残だという話だった。だが図面上では、その壁面に露出配管など存在しなかった。
トイレにも、厨房にも、空調にもつながっていない。
そこにあるはずのない管だった。
撤去の話が出たのは、その三日後だった。
作業員が継手のボルトに工具をかけた瞬間、道路の音が完全に消えた。車も、人も、風も、街ごと息を止めたようになった。白い配管の表面に、細かな黒い点が浮き、横管の下の筋が一斉に上へ伸びた。
すう。
また、吸う音がした。
今度は短くなかった。
壁の粉、ボルトの錆、作業員の手袋についた埃、それらが糸のように継手へ引き寄せられた。工具を握っていた作業員が悲鳴を上げた。指が挟まれたのではない。手袋の甲だけが、管に貼りついて離れなくなっていた。
高野さんが引き剥がすと、手袋の表面はつるつるに白くなっていた。
繊維がない。
布の目だけが、きれいに吸い取られていた。
撤去は中止になった。
それ以来、その配管には誰も触らない。黒い筋は増えたり減ったりしながら、今も横管の下に並んでいるという。雨の日より、晴れた昼のほうが濃くなるらしい。
高野さんは、あのビルの担当から外れた。
けれど最近、自宅の洗面所で手を洗っていると、排水口から外の道路の音がするという。水を流していない時ほど、はっきり聞こえる。車の音。信号の音。人の足音。
そして、昼になると一度だけ、排水口の奥で、すう、と音がする。
先週、高野さんは洗面台の下を開けてみた。
配管は普通だった。白い樹脂の管が一本、壁へ入っているだけだった。ただ、壁紙の上に、細い黒い筋が三本、上向きについていた。
その横に、鉛筆で引いたような短い線が半分だけ残っていた。
自分では書いていない。
だが、その線の残り半分がどこへ行ったのか、高野さんにはもう分かっているという。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。


