米国東海岸の沖合で、サメに小さな観測機器を取り付ける調査が行われているそうです。
海水の塩分に関係する電気伝導度、温度、深さを測るための機器で、サメが海面へ出た時、その記録が上空へ送られます。
研究船は陸から五十〜六十五キロほど沖へ出て、サメを待ちます。機器を背びれへ取り付ける作業そのものは、五分もかからないといいます。
その調査に、海洋観測を担当する若い女性が参加していました。
彼女の母親は、海の近くで暮らしていたそうです。
泳げない人でした。
海が好きだったわけでもありません。
ただ、娘が海の仕事を選んでからは、電話をするたび、
「今日は海、冷たいの」
と尋ねたといいます。
母親が亡くなったのは、その年の春でした。
病院の窓から海は見えませんでした。
最後に娘が見舞った時も、母親は同じことを聞いたそうです。
「今日は海、冷たいの」
娘は、少し迷ってから、
「まだ冷たいよ」
と答えました。
五月になり、調査が始まりました。
ある日、一匹の若いサメへ観測機器が取り付けられました。
海へ戻されたサメはそのまま沖へ泳ぎ、数時間後、最初の記録を送ってきました。
温度。
深さ。
塩分。
どれも珍しい値ではありませんでした。
ただ、一日の終わりに記録を整理していた時、女性は奇妙なことに気づいたそうです。
サメは一度だけ、海面近くまで浮上していました。
深さ、ほぼゼロ。
その時だけ、水温が記録されていませんでした。
代わりに、温度を示す欄には細い空白が残っていたといいます。
翌日も同じでした。
夕方になると、そのサメは海面へ上がりました。
そして、ほんの数秒だけ温度の記録が途切れました。
三日目。
四日目。
時刻は少しずつ違っていました。
それでも毎日一度だけ、海面で温度だけが残らない。
他の観測値は記録されていました。
だから、その部分だけを消す理由は分からなかったそうです。
五日目の夕方。
女性は海面へ上がったサメの位置を地図で確かめました。
そこは調査船から遠く離れた沖合でした。
その瞬間、研究室の窓が白く曇ったといいます。
冷房は入っていませんでした。
外は暖かく、室内との温度差もほとんどありません。
けれど窓の中央だけに、掌ほどの曇りが浮いていました。
ふと。
その曇りの上を、指が一本、横へ滑りました。
誰も触れていません。
曇りの中に細い線が残りました。
その下へ、もう一本。
さらに一本。
三本の線は、ひらがなのようにも見えたそうです。
女性はしばらく窓を見ていました。
やがて曇りは消えました。
ただ、最後まで残った二文字だけは読めたといいます。
「うみ」
その翌日から、サメの動きが変わりました。
夕方になると海面へ上がり、それから数分間、ほぼ同じ場所をゆっくり回るようになったそうです。
一周。
二周。
三周。
七日目には四周しました。
八日目には五周。
まるで、何かを待つ時間が一日ずつ長くなっているようでした。
そして十二日目。
サメは海面に上がったあと、そこから動かなくなりました。
十五分ほど、ほぼ同じ位置にいたそうです。
その間の海水温だけが、やはり記録されませんでした。
女性は画面を見ながら、誰に聞かせるでもなく、
「今日は、あったかいよ」
と言いました。
母親に最後まで答えられなかった言葉だったそうです。
その直後。
サメは潜りました。
深度十メートル。
二十メートル。
三十メートル。
そして、それまで一度も潜っていなかった深さまで、ゆっくり下りていきました。
そこから再び浮上するまで、しばらく記録はありませんでした。
次に海面へ出た時には、温度も正常に残っていたそうです。
翌日も。
その次の日も。
空白は二度と現れませんでした。
数か月後、その観測機器が海岸へ漂着しました。
サメから自然に外れたものだったそうです。
小さな傷はありましたが、特別な損傷はありませんでした。
ただ、回収した職員が背面を拭いた時、薄い白い跡が現れました。
塩の結晶だったといいます。
丸い輪郭の中に、細い線が五本。
小さな掌を押しつけたような形でした。
女性は、その写真を母親の遺品の中にしまったそうです。
理由を尋ねた人はいません。
ただ、それ以降、彼女は海へ出る日の朝、必ず自宅の窓を少しだけ開けておくようになりました。
夕方に帰宅すると、窓ガラスがときどき白く曇っているそうです。
文字はありません。
掌の跡もありません。
ただ一か所だけ、指先ほどの丸い部分が透明になっています。
誰かが向こう側から、海が見えるかどうか確かめたように……。
それが今も続いているのかは、記録には残されていないそうです。
……そんな話を聞きました。
この怪談は、以下の記事をきっかけに生成されたフィクションです。
Scientists turn to sharks to improve hurricane predictions
(reuters.com) reuters.com

