その年の夏、ある女性は、帰省の日を決められずにいたそうです。」
都市部の集合住宅から実家までは、車で片道一時間四十五分ほどでした。
けれど、その年の五月に母親が亡くなり、七月には古くなった家も取り壊されていました。帰る道は残っていても、その先に待つ家は、もうありませんでした。
居間のカレンダーには、八月十五日と十六日の両方に薄い丸がつけられていました。
どちらの丸にも、予定は書かれていません。
小学二年生の息子が、何度か尋ねたそうです。
「今年は、おばあちゃんの家に帰らないの」
女性は、そのたびに答えを変えました。
道が混むから。
仕事があるから。
お墓には秋になったら行くから。
そして最後には、「帰る家がなくなったから」と伝えたそうです。
息子はしばらく考えてから、「じゃあ、おばあちゃんはどこに帰るの」と尋ねました。
女性には、答えられませんでした。
八月十五日。
例年なら実家へ向けて出発していた午後五時に、女性は車の鍵を玄関の棚へ戻しました。
その一時間四十五分後……午後六時四十五分のことです。
台所から、茄子を油で焼いた匂いが漂ってきたそうです。
母親が盆の夕食に必ず作っていた料理でした。
けれど、台所には火を使った跡がありません。冷蔵庫にも茄子はなく、流し台には朝から何も置かれていませんでした。
匂いだけが、鍋の蓋を開けた直後のように濃く残っていました。
その時、息子が食卓の下へ潜り込みました。
「ここだけ、やわらかい」
床の一部が、足の裏へわずかに沈み返したそうです。
照明を近づけると、木目調の床材に、細かな格子模様が浮かんでいました。
畳の目でした。
長方形の模様は、実家の茶の間に敷かれていた一枚と、ほぼ同じ大きさだったといいます。
女性が指でなぞると、床から乾いた藺草の匂いがしました。
ふと、食器棚の奥で、小さな音がしました。
戸を開けると、見覚えのある青い縁取りの茶碗が置かれていました。
母親が毎朝使っていたものでした。
家を片づけた際、縁が欠けていたため、女性自身が処分したはずの茶碗です。
欠けた部分まで同じでした。
ただ、内側には炊きたての米粒が三つ、貼りついていました。
まだ温かかったそうです。
女性は茶碗を食卓に置きました。
すると、誰も座っていない席の前で、天板が小さく軋みました。
その音を聞いて、息子が笑いました。
「おばあちゃん、先に着いたって」
女性が誰と話しているのか尋ねても、息子は空いた椅子を見たままでした。
「帰る日が決まらないから、家のほうから来たんだって」
その直後、食卓の上に、細長い紙の封筒が落ちました。
どこから落ちたのかは分かりません。
封筒には、母親の字で息子の名前と、「お盆玉」と書かれていました。
中には、九千九百七十七円が入っていたそうです。
一万円ではありません。
女性と息子は二度数えましたが、金額は変わりませんでした。
紙幣も硬貨も、長く誰かの手に握られていたように、わずかに温かかったといいます。
夜が深くなるにつれ、部屋には別の音も混じり始めました。
廊下を歩くたび、集合住宅の床ではなく、古い家の板張りが鳴る音がしました。
窓の外からは、近くにいないはずのヒグラシの声が聞こえました。
洗面所の蛇口を閉めると、実家の裏庭にあった井戸の蓋が擦れるような音が返ってきました。
けれど、部屋の形は何も変わりません。
壁も、窓も、家具も、いつものままでした。
ただ、匂いと音と、足の裏へ伝わる感触だけが、取り壊された家のものになっていたそうです。
息子は空いた椅子の隣に布団を敷き、そこで眠りました。
女性は夜明けまで、青い縁取りの茶碗を見ていました。
八月十六日の朝。
日の光がカーテンの隙間から入ると、古い家の気配は少しずつ薄れていきました。
茄子の匂いが消え、ヒグラシの声が止まり、床は硬い板へ戻りました。
息子が目を覚ました時、空いた椅子は食卓の下へきちんと収められていました。
青い茶碗と、お盆玉の封筒だけは残っていました。
そして食卓の下には、畳一枚ぶんの格子模様が、薄い日焼け跡のように刻まれていたそうです。
床を張り替えようとしても、その部分だけは剥がれませんでした。
表面を削ると模様も消えます。
けれど翌朝には、また同じ場所へ畳の目が浮かんでいたといいます。
女性は結局、その年の盆には、どこへも出かけませんでした。
それでも息子は、夏休みの日記にこう書いていたそうです。
「八月十五日、おばあちゃんが帰省してきました」
先生は、「帰省するのは、あなたたちのほうではありませんか」と赤い字を添えました。
その下には、鉛筆で小さく返事が書かれていました。
息子の字ではありませんでした。
「今年は、こちらから帰りました」
その日記と、床に残った畳の目は、今も同じ家にあるそうです。
九千九百七十七円だけは、誰も使っていません。
数か月に一度、女性が封筒を開いて確かめると、紙幣と硬貨は、取り出した時と同じように温かいのだといいます。
それが誰の帰省だったのか……もう、確かめる家は残っていないそうです。
……そんな話を聞きました。
この怪談は、以下の記事をきっかけに生成されたフィクションです。
2026年 お盆の帰省に関する調査

