昼なのに、その階段だけは底が暗かった。
両側のビルに挟まれた細い階段で、上には青空が抜けている。右側の黒い壁は熱を吸い、左の白い壁には赤い落書きが垂れていた。丸い印と、払い落とした髪のような細い線。通り慣れているはずなのに、その日は一段目に足を乗せた瞬間、靴底の下で階段が小さく脈を打った。
二段、三段と上がるたび、手すりの木が湿っていった。雨など降っていない。握った掌に、ぬるい息のようなものがまとわりつく。振り返ると、下の入口はまだ見えているのに、そこから聞こえる車の音だけが遠かった。階段全体が、街の音を飲み込んでいる。
左の壁の赤い落書きが、さっきより近い。
そんなはずはない。壁は動かない。だが赤い丸は肩の高さまでせり上がり、細い線は乾いた塗料ではなく、濡れた爪痕のように見えた。そこから、がり、と音がした。内側から壁を掻く音だった。
逃げようとして足を速めた瞬間、右の手すりが手首を締めた。木材の丸みが、まるで歯茎のように柔らかく沈み、鉄の支柱の隙間から黒い指が一本ずつ伸びてくる。指は人間の形をしているのに、関節が多すぎた。触れた場所から服が冷たくなり、腕の皮膚だけが階段の奥へ引っ張られる。
上から何かが降りてきた。
影ではない。青空を背に、ビルの隙間いっぱいに、透明な腹のようなものが膨らんでいた。階段が喉で、手すりが歯で、その奥にいる何かが、登ってくる人間を一人ずつ噛み上げているのだと分かった。叫んでも声は上へ吸われ、口の中に鉄粉の味だけが残った。
左壁の赤い丸が、ぱくりと開いた。
その中に、以前ここを通った誰かの顔が押し込まれていた。目も鼻も潰れて、壁の塗装の下からこちらを見ている。声は出さない。ただ、口の形だけが「次」と動いた。
足首を掴まれた。階段の蹴込み板の黒い隙間から、薄い腕が絡みつき、膝を石段へ叩きつける。手すりに締められた手首が軋み、骨の内側で乾いた音がした。上の青空は明るい。明るすぎて、助けを呼ぶ相手がどこにもいないことがはっきり分かる。
最後に体を引き剥がしたのは、偶然だった。ポケットの鍵束が手すりの継ぎ目に挟まり、金属が嫌な音を立てた。その瞬間だけ、手すりの力が緩んだ。私は転がるように上へ逃げ、最上段で植え込みに顔から突っ込んだ。
後ろを見ると、階段は普通だった。赤い落書きも、乾いた壁の汚れに戻っていた。ただ、手すりの木の部分に、内側へ噛み込んだような凹みが五つ並んでいた。私の手首にも同じ幅の痕が残った。
それから数日、右手首の痣は消えない。痣の内側に、赤い線が一本ずつ増えている。あの壁の落書きと同じ垂れ方で。
先週、知人がその階段を通った。何もなかったと言って笑っていたが、写真を見せてもらって言葉が止まった。左の白い壁に、赤い丸が二つあった。
一つは、最初からあった丸。
もう一つは、私の手首の高さに、まだ乾いていない赤で描かれていた。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。


