そのマンションの敷地には、建物と建物のあいだを縫うように小さな公園が設けられている。遊歩道の両側には背の高い木が続き、低い植え込みの中には簡単な運動器具もある。夜でも完全な暗闇にはならず、隣接する施設の灯りや足元灯が木々の隙間から差し込んでいた。
だから、誰かが立っていれば分かる。
秋口の夜、十時半を過ぎたころだった。帰宅途中の住人が遊歩道へ入ると、少し先の木の脇に人がいた。赤いカラーコーンのさらに向こう、幹に小さな管理札が巻かれている木だった。
黒っぽい服を着た、大人くらいの背丈の人だったという。
妙だったのは、その立ち方だった。
散歩の途中で休んでいるようには見えなかった。木の正面に立ち、顔を幹へ向けている。額が樹皮に触れているのではないかと思うほど近い。両腕は身体の横へ下ろしたままで、スマートフォンを見ている様子もない。
住人は少し迷ったが、そのまま歩いた。酔っている人かもしれないし、具合が悪いのかもしれない。声をかけるべきか考えながら近づいていくと、途中で太い木が視界を横切り、人影が隠れた。
ほんの二、三歩だった。
木を過ぎると、そこには誰もいなかった。
走り去ったような音もしなかった。左右は植え込みで、その奥にはフェンスが続いている。人ひとりが急に姿を消せるような場所ではない。
住人は足を止めた。
そして前を見た。
二十メートルほど先の木の脇に、同じ人が立っていた。
今度も木の正面だった。顔を幹へ向け、両腕を下げ、背筋だけを不自然なくらい真っすぐ伸ばしている。
服装までは分からない。ただ、身体の幅と高さが、さっき見たものとほとんど同じだった。
住人は遊歩道を戻ることにした。
振り返って十歩ほど歩き、気になってもう一度だけ後ろを見ると、二本目の木のところには誰もいなかった。
代わりに、最初の木の脇に立っていた。
翌日、その話は管理室にも伝えられた。
巡回中の管理員ではないかと確認されたが、その時間に敷地内を回っていた者はいなかった。造園業者も入っていない。住人以外の人間が公園へ入ること自体は不可能ではないが、わざわざ木に向かって立っていた理由までは説明できなかった。
それだけなら、見間違いで終わっていたと思う。
三日後、別の住人から似た話が出た。
夜、公園の運動器具の近くを通ったところ、木に向かって立っている人がいたという。怖くなって距離を取って歩いたが、ひとつ先の木まで来たとき、なぜかその人がそこにいた。
追い抜かれた覚えはなかった。
二人の証言で共通していたのは、顔が見えなかったことだった。
後ろ姿だったからではない。
横から見ても、斜めから見ても、顔が木のほうへ隠れていた。
まるで人間の身体が、顔だけを幹の裏側へ入れて立っているようだった、と二人とも表現した。
その週から、管理員が夜の巡回を増やした。
四日目の午後十時過ぎ、二人で遊歩道を歩いていたときだった。奥の木の横に、黒い縦長のものが見えた。
一人が足を止めた。
木の影ではなかった。
肩があった。頭があった。脚のあいだには、向こう側の灯りが細く見えていた。
人だった。
もう一人の管理員が先へ進み、残った一人が離れた場所から見ていた。近づいていく管理員と、木に向かって立つ人影。その二つを、できるだけ同時に視界へ入れていたという。
十メートル。
八メートル。
五メートル。
その途中、手前の幹が一瞬だけ人影に重なった。
管理員の目には、それが消えたようには見えなかった。
ただ、幹が通り過ぎたあと、立っている場所が変わっていた。
近づいている管理員の、さらに後ろ。
次の木の脇にいた。
管理員はその場から動かなかった。足音を聞いて振り返ったわけでもない。ただ、離れたところにいた同僚の表情を見て、自分の後方に何かいることだけは分かったらしい。
ゆっくり振り返った。
そこには木しかなかった。
しかし、そのさらに先にある木の脇には、人が立っていた。
その晩、二人はそれ以上近づかなかった。
翌朝、植栽を担当する作業員が遊歩道を確認した。
木そのものには異常がなかった。枝が折れた様子もなく、幹を傷つけた跡もない。土も荒れていなかった。
代わりに、幹へ巻かれている管理札がおかしくなっていた。
そのマンションでは、植栽管理のため、それぞれの木に小さな札を付けている。樹種や管理番号、それから剪定や点検のための簡単な項目が記載されていた。
昨夜、人影が立っていた三本を確認すると、状態を示す欄がすべて同じ文字になっていた。
「立枯れ」
木は枯れていなかった。
三本とも葉は青く、枝もしなやかだった。造園業者が幹を叩いて確認しても、内部が腐っている様子はない。
管理記録を調べると、前回の点検ではすべて「健全」となっていた。
誰かの悪戯だと考えられた。
ところが札は透明な保護材で密封されている。文字を書き足すなら表面にインクが残るはずだが、何も付着していなかった。
「立枯れ」の文字は、元から印刷されていたように紙の内側にあった。
三枚は外され、新しい札に交換された。
古いものは管理室へ持ち込まれた。
それからしばらく、人影の目撃はなかった。
夜の公園には、以前と同じように木々の隙間から灯りが入り、赤いカラーコーンが置かれ、運動器具が植え込みの横に見えていた。
一か月ほどして、また住人から連絡が入った。
「あそこに人がいる」
管理員が向かうと、誰もいなかった。
場所を聞くと、以前とは少し違っていた。
遊歩道の奥ではない。
マンションの入口に最も近い木だった。
その木には、新しい管理札が付いていた。
昼間に確認したときには何もおかしくなかったという。
管理員が懐中電灯を向けた。
樹種。
管理番号。
点検日。
そこまでは正常だった。
状態欄だけが変わっていた。
「立枯れ」
翌朝、札はまた交換された。
その日の夜には変化しなかった。
翌日も同じだった。
三日目も何も起きなかった。
四日目の午後十一時ごろ、帰宅した住人が遊歩道の入口で足を止めた。
木のところには誰もいなかった。
しかし少し奥、運動器具の脇に人が立っていた。
木に向かってはいなかった。
マンションの建物を向いていた。
顔は暗くて見えなかったという。
その翌朝、管理員は入口近くの木を確認した。
札には「立枯れ」と書かれたままだった。
だがその横に、小さな変化があった。
札を幹へ固定している細い帯が、異常なほど深く樹皮へ食い込んでいた。
前日に新品へ交換したばかりで、成長を妨げないよう十分な余裕を持たせてあったはずだった。
帯を切ると、幹には浅い溝が一周残っていた。
その木だけではなかった。
人影が立ったことのある木を順番に調べると、すでに札を外した三本にも、同じ高さで細い溝が残っていた。
どれも完全に幹を一周していた。
ところが妙なことに、遊歩道のいちばん奥にある一本だけは違っていた。
溝が途中で途切れていた。
木の裏側。
人が立っていた場所だけ、十数センチほど空いていた。
そこへ手を当てると、樹皮には傷ひとつなかったという。
人の顔ひとつぶんほどの幅だけが。
管理室には今も、最初に外した三枚の札が保管されている。
木は一本も枯れていない。
けれど札には、三枚とも変わらず、
「立枯れ」
と印刷されている。
そして夜の巡回では、木の本数を数えないことになったそうだ。
木と木のあいだに、一本ぶん多く立っているものがあっても、確かめずに通り過ぎるために。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。


