都心から少し離れた大きな駅に、空港へ向かう連絡バスの乗り場がある。駅舎の下へ大型バスが横付けされ、細い乗り場には時刻表の柱と黄色い誘導ブロックが並んでいる。夕方になると旅行客や仕事帰りらしい人が集まり、発車時刻の少し前から、白い車体の脇に短い列ができる。
乗り場の案内を担当していた係員が、その異変を見たのは蒸し暑さの残る夕方だった。空港行きのバスはすでに到着し、エンジンをかけたまま乗車口を開けていた。運転手は車内で端末を確認し、乗客たちは少し離れた場所でスマートフォンを見たり、荷物を足元へ置いたりしていた。
時刻表の柱の横に立っていた女性が、ふっと息を吐いた。
口元から白いものが出た。
冬なら何でもない。だがその日は半袖でも汗ばむほどで、周囲の誰も白い息など吐いていなかった。係員は最初、バスの冷房が乗車口から漏れ、その冷気に息が触れたのだと思った。
ところが白い息は上へ散らなかった。女性の口から十センチほど前へ出たところで形を崩し、細い煙のように下へ曲がった。そのまま黄色い誘導ブロックの上を這い、バスの乗車口へ流れていった。
女性自身は気づいていないらしく、スマートフォンを見続けていた。係員が念のため声をかけ、一歩後ろへ下がってもらうと、次に吐いた息は見えなかった。もう一度元の場所へ立ってもらうと、また白くなった。
「寒くありませんか」
そう尋ねると、女性は首を振った。むしろ暑いくらいだという。係員が自分の手を伸ばしてみても、冷気は感じなかった。
試しに係員自身が同じ位置へ立った。呼吸をすると、二度目の息で白いものが見えた。自分の口から出たはずなのに、白さには妙な重さがあった。空気に溶けず、足元へ沈み、乗車口の一段目へ吸い寄せられていく。
その瞬間だけ、胸の中が軽くなりすぎた。
息を吐いたあとなのだから当然なのだが、肺だけではなく、胸の奥にあった何かまで一緒に抜けたような感覚だったという。慌てて大きく息を吸うと身体は普通に戻ったが、係員はその場所から離れた。
運転手にも確認してもらった。車内の温度表示に異常はなく、冷房を止めても現象は消えなかった。エンジンまで切ったが、乗車口の前に立つと息だけは白くなる。
発車時刻が近づき、後続の便もあるため、いつまでも止めておくわけにはいかなかった。係員は設備の異常ではないと判断し、とりあえず乗車を始めることになった。
最初の乗客が乗車口へ近づいた。
黄色い誘導ブロックを越えたところで、その人の息が白くなった。続く乗客も同じだった。三人目になるころには、係員が声をかけなくても分かるほど濃い白さになっていた。
奇妙なのは、息を吐いた人がバスへ乗り込んだあとだった。
白い塊だけが、その場へ残った。
ほんの二、三秒だったという。人間はすでに階段を上がり、車内へ入っている。それなのに乗車口の外、ちょうどその人の顔があった高さに白い靄が浮かび、遅れてから下へ沈んでいった。
四人目でも同じことが起きた。五人目では、残った白い靄が消える前に次の乗客の息が重なった。白さは乗車口の前へ溜まり、低いところから細長く伸びて、階段の奥へ吸い込まれていった。
そこで係員が乗車を止めた。
すでに乗っていた客にもいったん降りてもらった。別の車両を手配することになり、問題のバスは乗客を入れないまま乗り場に残された。
最後の人が降りてからしばらくすると、白い息は出なくなった。係員が何度か同じ場所で呼吸しても、今度は何も見えない。気温も床面も、測ってみれば周囲とほとんど変わらなかった。
ただ、乗車口の一段目に白い粉が落ちていた。
霜のようにも見えたが、濡れてはいなかった。指で触ると非常に細かく、灰よりも軽い。吹けば飛びそうなのに、靴底で踏むとゴムの床材へ貼りつき、白い跡だけが残った。
車両はそのまま営業所へ回された。
整備担当が調べても、冷房や換気装置に異常はなかった。冷媒の漏れもなく、車内へ外気を取り込む経路にも破損は見つからなかった。ただし前方の空調フィルターを外したところ、その片面だけが真っ白になっていた。
外気を吸い込む側ではない。
車内側だった。
細かいひだの奥まで、乗車口に落ちていたものと同じ白い粉が詰まっていた。濡れていないのに、触ると指先だけが異様に冷たくなったという。
フィルターは交換され、古いものは原因調査のため透明な袋へ入れて保管された。袋は口を密封され、空調の効いた整備室の棚へ置かれた。
数日後、担当者が袋を確認すると、白い粉はほとんど消えていた。
湿気を吸ったのか、振動で落ちたのかと思って袋を裏返したが、底にも溜まっていなかった。フィルターのひだは灰色へ戻り、一見すると普通の使用済み部品にしか見えなかった。
その日の夕方、別の整備員が棚の前を通った。
透明な袋の内側が曇っていた。
冷蔵庫から出した物でもない。室温も一定だった。それでも袋の中央だけに、薄い白い靄が付着していた。整備員が近寄ると、曇りはゆっくり濃くなった。
そして袋の中で、フィルターが白くなり始めた。
ひだの端からではなかった。十数か所ほどが離れた位置で同時に白くなり、それぞれ小さな斑点を作った。その斑点が時間をかけて広がり、やがて互いにつながった。
整備員は袋を開けなかった。
翌朝には、また白いものは消えていたという。
そのフィルターは現在も処分されずに保管されている。ただし整備室からは移された。人の出入りが少ない資材倉庫の奥に置かれ、透明な袋の上から、さらに厚いケースへ入れられている。
理由は、白い粉が戻る時刻にある。
毎日ではない。けれど現れる日は、決まって夕方だった。
あのバスが、駅前の乗り場を発車するはずだった時刻の少し前。
一度だけ、ケースを開けずに見張った整備員がいる。その日は粉ではなく、袋の内側へ白い靄が浮いた。丸い曇りがいくつも現れ、数秒ごとに濃くなっては薄くなった。
まるで、袋の中で何人もの人間が静かに息をしているように見えたそうだ。
翌朝、フィルターには白い粉が残っていた。
掃除しても完全には落ちなかったため、その部分だけ切り取ろうとしたところ、フィルターの繊維そのものが白く変色していることが分かった。表面の汚れではなく、細い繊維の一本一本が内側から色を失っていた。
現在、その車両は別の便で使用されているという。
駅前の空港バス乗り場も、場所も設備も変わっていない。夕方になると時刻表の柱の横へ人が立ち、黄色い誘導ブロックの前でバスを待っている。
係員は今でも、発車前になると乗客の顔ではなく、口元を見ることがあるそうだ。
暑い日に、白い息を吐いている人がいないか。
そしてもし見つけても、その人にはすぐ声をかけない。
先に、その白いものがどちらへ流れるかを見る。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

