閉店時刻を過ぎたオープンテラスで、中央のパラソルが一度だけ大きく膨らんだ。
風はなかった。
ここは駅に直結した建物の中にある常設の飲食街で、屋根も壁もある。雨が降り込む場所ではないが、客席には屋外用のテーブルとパラソルが並べられていた。
営業中は開かれているパラソルも、閉店が近づくと順番に畳まれる。黒い布を細く巻き、帯で留める。それが夜番の仕事だった。
その晩、片づけを担当していた岸本は、膨らんだパラソルへ手を伸ばした。
畳まれた布は、人肌ほどに温かかった。
内側のひだへ指を入れると、湿っている。雨水ではない。指先に残ったのは、焼いた肉、酒、香水、整髪料、それから誰かの口元へ近づいたときのような、生温かい匂いだった。
岸本は布から手を離した。
その途端、周囲の椅子から匂いが消えた。
さっきまで残っていた料理の脂も、消毒液も、木製テーブルの乾いた匂いさえしない。鼻を近づけても、椅子は新品の金属のように無臭だった。
代わりに、閉じたパラソルのひだが、少し太くなっていた。
翌晩も同じことが起きた。
客が帰った直後まで、椅子にはそれぞれ違う匂いが残っていた。煙草を吸った上着、甘い飲み物、焼き魚、濡れた髪。
だがパラソルを閉じて帯を締めると、その匂いが一つずつ消えていく。
布の内側だけが湿り、温かくなる。
三日目には、閉じたパラソルの表面が、呼吸する腹のようにゆっくり上下していた。
頭上では、赤と白の提灯が揺れていた。
印刷された「祭」の文字が、風もないのに少しずつ向きを変え、すべて中央のパラソルを向いた。
岸本は責任者を呼ぼうとした。
その前に、帯の留め具がひとりでに外れた。
布は開かなかった。
畳まれたまま、内側から押し広げられた。折り目の間に、口の形をした濡れ跡が次々と浮かんだ。大きいもの、小さいもの、唇の薄いもの。どの跡も、何かを吐き出すのではなく、周囲の空気を吸い込んでいた。
テラスの空気が一気に薄くなった。
岸本が息を吐くと、白い糸のようなものが口から伸びた。
糸は床へ落ちず、中央のパラソルへ吸い寄せられた。布の隙間へ入り込むたび、濡れ跡が一つずつ膨らんだ。
吸い込もうとしても、胸に空気が入らない。
周囲の椅子が鳴った。
一脚ずつ、脚を床に擦りながら中央へ向きを変える。
誰も座っていない座面がゆっくり沈み、背もたれが軋む。テーブルの下には、人間が座った高さで白い靄が溜まっていた。
岸本の背後から椅子が滑ってきた。
膝の裏にぶつかり、身体が座面へ落ちる。
触れた瞬間、椅子が岸本の体温を吸い始めた。
腿から感覚が消えた。腰が冷え、指先が痺れる。その一方で、閉じたパラソルの布はさらに温かくなり、折り目の奥で何十もの濡れ跡が同時に脈打った。
通路側で片づけをしていた同僚が戻り、岸本を椅子から引きずり降ろした。
床へ倒れた岸本の呼吸が戻ると、パラソルは急に萎んだ。
提灯も元の向きへ戻った。
ただ、岸本が座らされた椅子だけは、誰も触れていないのに深くへこんだままだった。
問題のパラソルは翌朝、客席から撤去された。
倉庫で布を広げると、内側に四十七個の楕円形の染みがあった。
水滴ではなかった。
どれも唇を押しつけた跡に似ており、表面には細かな縦皺が残っていた。中央の一つだけ、右端が小さく切れていた。
岸本の下唇にも、同じ位置に古い傷があった。
あの夜以来、岸本の吐く息は鏡にも窓にも映らない。
冬の朝でも白くならない。
だが毎晩、閉店時刻になると、倉庫に置かれたパラソルの内側だけが曇る。
曇りの中央には、あの切れた唇の跡が浮かぶ。
岸本が夕食に何を食べたのか、倉庫へ入れば匂いで分かるという。
最近、その跡は以前より深く膨らむようになった。
そして岸本は、閉店時刻が近づくたび、息を吐くことはできても、吸い込むまでに少し時間がかかるようになっている。
先週、パラソルを縛る帯の穴が一つずれていた。
誰も触れていないのに、前よりきつく締め直されていた。
布の中に残されたものが、もう一度、人ひとりを座らせられる大きさまで育たないように。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

