四十度の迎え水

ウラシリ怪談

七月の終わり、ある内陸の町で、最高気温が四十度に達する日が続いたそうです。

行政の放送は、冷房をためらわず使うこと、水分をこまめに取ること、長時間の外出を避けることを繰り返していました。前年には四十一・八度を記録しており、住民も暑さには慣れたつもりでいたといいます。

町外れの集合住宅には、ひとり暮らしの老人がいました。

前年の春に妻を亡くしてから、居間の座布団を二枚並べたままにしていたそうです。冷房を入れると妻が寒がったことを思い出すため、どれほど暑くても、夕方までは窓を開けて過ごしていました。

最初の異変は、気温が四十度を超えた日の午後に起きました。

老人が台所へ行くと、流し台の前に、小さな水たまりができていたそうです。

蛇口は閉まっていました。天井にも配管にも濡れた跡はなく、水は丸い器の形に溜まり、縁には指でなぞったような細い筋が残っていたといいます。

老人はそれを見て、妻が夏になると玄関先へ打ち水をしていたことを思い出しました。

ただし妻は、家の中へ水を撒くことはありませんでした。

翌日も四十度になりました。

老人が買い物から戻ると、居間の冷房がついていました。設定温度は二十八度。妻が生前、必ず選んでいた温度だったそうです。

老人は消し忘れたのだろうと思い、冷房を止めました。

すると、隣の座布団がゆっくり沈みました。

誰かが腰を下ろしたほど深くはありません。ただ、畳との間に挟まっていた空気が、ふう、と漏れただけのようにも見えたといいます。

その夜、老人は妻の湯呑みにも麦茶を注ぎました。

二つの湯呑みを並べると、妻のほうだけ、表面に細かな水滴が浮きました。冷蔵庫から出したばかりの老人の湯呑みよりも冷たく、底には白い輪が残ったそうです。

その輪は、朝になっても乾きませんでした。

七月六日から十二日までの一週間に、暑さで四千五百八十人が運ばれ、七人が亡くなったという知らせが流れました。

老人は、その七人の中に知人はいないか、新聞を何度も読み返しました。

名前は載っていませんでした。

けれど、七という数字を指で押さえるたび、台所の水たまりに、小さな波紋が一つずつ広がったそうです。

一つ。

二つ。

老人が数えるのをやめても、波紋は七つまで続きました。

その日から、水たまりは少しずつ居間へ近づきました。

初めは流し台の前。

次は廊下。

その次は、妻の座布団の脇。

水は移動したのではなく、毎朝、前の日より少しだけ老人に近い場所へ、新しく現れていたといいます。

不思議なことに、その水へ手を触れると冷たくありませんでした。

体温よりもわずかに温かく、誰かが長く両手で包んでいた湯呑みのような温度だったそうです。

老人の娘が様子を見に来たのは、三日後でした。

玄関を開けた途端、娘は「お母さんの匂いがする」と言いました。

香水ではありません。煮出した麦茶と、日に干した布団と、濡れた土が混じったような、昔の夏の匂いでした。

居間には冷房が入り、老人は二枚の座布団の間で眠っていました。

娘が呼びかけると老人は目を覚まし、ひどく申し訳なさそうに、こう言ったそうです。

「迎えに来たんじゃないらしい。涼しくなるまで、ここにいるだけだ」

妻の座布団には、誰もいませんでした。

ただ、座布団の前に水を入れた小さな器が置かれていました。

娘には見覚えのない器でしたが、老人は、妻が若い頃に使っていたものだと言いました。引っ越しの際に割れて、二十年以上前に捨てたはずの器だったそうです。

縁には古い欠けがありました。

けれど水は、一滴も漏れていませんでした。

その晩、娘は老人を自宅へ連れて帰ろうとしました。

老人も拒みませんでした。

冷房を止め、窓を閉め、二人で玄関を出たそうです。

ところが、階段を下りたところで、老人が足を止めました。

部屋の中から、水を撒く音が聞こえたといいます。

しゃっ、しゃっ、と。

狭い玄関へ、柄杓で少しずつ水を撒くような音でした。

続いて、女の声がしたそうです。

言葉は聞き取れませんでした。

老人だけは微笑み、「分かっているよ」と返しました。

娘が扉を開け直すと、部屋の中には誰もいませんでした。

ただ、玄関から居間まで、濡れた足跡が二人分続いていました。

一人分は裸足。

もう一人分は、老人が履いている靴と同じ形でした。

どちらも部屋の奥へ向かっており、戻ってくる跡はなかったそうです。

老人はその夏を越し、秋まで娘の家で暮らしました。

元の部屋は解約され、荷物もすべて運び出されました。

最後に管理人が確認した時、空になった居間の畳には、丸い水の輪が二つ並んでいたといいます。

一つは、数日後に乾きました。

もう一つは、冬になっても消えませんでした。

今でも気温が四十度に近づく日だけ、その輪の中央に、浅く水が溜まるそうです。

水面には、ときおり二人分の影が並んで映るといいます。

片方は老人の姿です。

もう片方が誰なのか、老人が亡くなった今となっては、確かめる者もいないそうです……そんな話を聞きました。

この怪談は、以下の記事をきっかけに生成されたフィクションです。

Japan sizzles in first ‘brutally hot’ days of the year

reuters.com

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