古い家は、両側から新しい建物に挟まれるようにして残っていた。二階の金属製の手すりには錆が浮き、正面の戸も長く開けられていないように白く曇っている。右側の壁だけは傷みがひどく、崩れた部分を覆うように青い養生シートが張られ、茶色いテープが何本も継ぎ足されていた。
その家には、もう誰も住んでいなかった。最後の住人が出てから半年以上が経ち、電気もガスも止められている。管理会社の担当者が月に一度だけ中へ入り、雨漏りや侵入の跡がないか確かめていた。
妙なことが起きている、と近所から連絡が入ったのは夏の終わりだった。異臭がするというのだが、腐敗臭でも下水の臭いでもない。青いシートの脇を通ると、炊きたての米や焼いた魚のような、誰かの夕食の匂いがするという。
担当者が昼過ぎに現地へ行くと、確かに匂った。青いシートの前へ立った瞬間、湯気の立つ味噌汁のような匂いが鼻に入った。ところが一歩横へ動くと、完全に消えた。
家の中には何の匂いもなかった。畳を上げても、流し台の排水口を調べても異常はない。むしろ半年閉め切った空き家らしい、乾いた埃と古い木の匂いしか残っていなかった。
翌日には味噌汁の匂いも消えていた。その代わり、シートの前だけが洗濯物のような匂いになっていた。石鹸と柔軟剤が混ざった、ごく普通の家庭の匂いだったという。
その日の点検で、一階の奥の部屋に見覚えのないものが落ちていた。青いプラスチック製の洗濯ばさみだった。
床の中央に一つだけ転がっていた。触ると、まだ湿っていた。前日に担当者が入ったときにはなかったことだけは間違いなかった。
玄関には封印用の細いテープを貼ってあり、窓にも侵入の跡はなかった。家族にも確認したが、以前の住人が使っていた物ではないという。安価な洗濯ばさみなので、それ以上調べようもなかった。
一週間ほどすると、また匂いが変わった。今度はカレーだった。翌朝、奥の部屋には赤い樹脂製の小さなスプーンが落ちていた。
その次は防虫剤の匂いがした。現れたのは、古いハンカチだった。さらに香の匂いがした翌日には、灰の付いた小さな香立てが置かれていた。
どれも特別なものではない。だからこそ、気味が悪かったという。何かの儀式に使う道具でも、古い家から出てきそうな曰くありげな品でもなく、今もどこかの家で普通に使われていそうな生活用品ばかりだった。
担当者は、それらを段ボール箱へ移した。そのとき、奇妙な共通点を見つけた。洗濯ばさみにも、スプーンにも、ハンカチにも、二、三センチほどの青い繊維が一本ずつ絡んでいた。
外壁を覆っている養生シートと、同じ色だった。
シートそのものは外側にある。奥の部屋とは壁一枚を隔てており、壁には穴も亀裂も見つからない。それでも新しく現れる物には、必ず青い繊維が付着していた。
その頃から、家の前で足を止める通行人が増えた。理由を尋ねたわけではないが、皆、青いシートのあたりで一度だけ歩調を緩める。何かを見ているというより、匂いを確かめるように鼻を上げ、それから何事もなかったように歩き去った。
ある昼、担当者が道路の向かい側から家を見ていると、一人の女性が通りかかった。肩に淡い色のバッグを掛け、黒い靴を履いていた。女性はシートの横で急に立ち止まり、自分の服の袖を一度だけ嗅いだ。
数秒後、そのまま歩いていった。両足には黒い靴を履いたままだった。それは担当者もはっきり見ている。
女性が角を曲がった直後、青いシートの前へ行ってみると、今までとは違う匂いがしていた。化粧品のような甘い匂いと、濡れた革に似た匂いだった。
翌朝、奥の部屋の中央に黒い婦人靴が一足だけ置かれていた。
右足だった。埃の積もった床の上に、誰かが脱いで揃えようとしたような向きで置かれていた。靴底には道路を歩いた程度の汚れが付き、踵にはまだわずかな温かさが残っていたという。
担当者は前日に見た女性を思い出した。しかし、確かめる方法はなかった。少なくとも女性は、家の前を離れるときにも左右両方の靴を履いていた。
靴の内側にも、青い繊維が一本入っていた。
管理会社は、原因が分かるまで家への立ち入りを最低限にすることにした。奥の部屋から回収した品はすべて別の事務所へ移し、玄関と窓を再び封印した。それでも青いシートの前では、ときどき知らない家の匂いがした。
煮物。整髪料。濡れた犬。新しい畳。赤ん坊に使うような甘い石鹸。
それらは混ざらなかった。一つの匂いが消えると、次の匂いがする。まるで青いシートの向こう側に小さな部屋があり、そこへ住む人間だけが少しずつ入れ替わっているようだった。
外壁の補修が終わり、青いシートを撤去する日が決まった。作業員がテープを剥がしても、その裏から空洞や入口は見つからなかった。普通の古い壁があるだけで、内側へ通じる隙間すらなかったという。
外されたシートは折り畳まれた。ところが何重にも畳んだところで、作業員の一人が手を止めた。街路側を向いていた面から、いくつもの匂いが別々に残っていたからだった。
上の端は煙草。中央は柔軟剤。下のほうは油で揚げた食べ物。そして、人の肩ほどの高さにある一部分だけ、あの甘い化粧品と革の匂いが残っていた。
シートは捨てず、念のため厚い透明袋に入れて管理会社の倉庫へ運ばれた。袋の口を樹脂製の結束バンドで固定し、外から開けたか分かるよう番号付きの封印も付けた。家のほうでは、それ以降、物が増えることはなくなった。
三か月ほどして、倉庫を整理していた担当者がその袋を見た。
折り畳んだ青いシートの間に、黒いものが挟まっていた。
外から見ても靴だと分かった。婦人用の黒い靴で、透明袋の内側から押しつけられるようにして踵だけが見えていた。封印は切れていなかった。
袋を開けた者はいない。それでも以前回収した右足の靴を箱から出し、透明袋越しに並べてみた。
同じ型だった。
袋の中にあるのは、左足だった。
管理会社では現在も、その二つを処分していないという。右足は段ボール箱の中に、左足は青いシートと一緒に封印されたまま、それぞれ別の棚に置かれている。
ただ、半年ほど前から、倉庫に入ると、ときどき夕食の匂いがするようになった。
青いシートを保管している棚の前だけで。
そして最近、透明袋の奥に、靴とは別のものがもう一つ見えるようになったという。布のような薄い色の塊で、折り畳まれたシートの隙間から、持ち手らしい輪が少しだけ出ている。
誰も袋を開けて確かめてはいない。
家の前を通った誰かが、まだ何も失くしていない可能性があるからだ。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

