南の街区と、川を渡った向こう側に住んでいた子どもたちへ、古い出来事のあとに浴びた粉じんと、その後の身体のことを調べるための封筒が届き始めたそうです。
対象になるのは、そのころ二十一歳以下だった人、あるいは、まだ母親の胎内にいた人。封筒の中には、質問票、同意書、唾液を入れる細い容器、それから比較のために参加する人へ渡す別の紙が入っていました。
ある女性にも、それが届きました。
彼女は当時、川向こうの古い集合住宅に住んでいたそうです。記憶に残っているのは、窓枠に積もった灰色の粉と、洗ってもざらついたままだったぬいぐるみの耳。それから、母親が何度も「息を浅くして」と言った声だけだったといいます。
封筒を開けた時、最初の異変がありました。
唾液を入れる容器のラベルに、彼女の名前ではない、薄い文字が一行だけ浮いていたそうです。けれどそれは名前ではありませんでした。
「まだ」
ただ、それだけでした。
女性は印刷の汚れだと思い、紙で擦りました。すると文字は消えましたが、指先に灰のような粉がつきました。封筒の中は清潔で、容器も未開封でした。なのに、その粉だけが、古い窓枠から集めたように細かく、乾いていたそうです。
質問票には、当時の住所を書く欄がありました。女性が南の街区名をぼかして書こうとすると、ペン先が一度だけ止まりました。紙の繊維に引っかかったのではありません。誰かが、紙の裏側から、そこだけをそっと押さえているようだったといいます。
次の欄には、当時の年齢を書くようになっていました。
彼女は、自分の年齢を書きました。
その下に、本来はないはずの小さな枠が浮いたそうです。印刷ではなく、紙がそこだけ少し凹んで、四角く光を拒んでいました。見出しには何もありません。ただ、枠の端に、鉛筆でなぞったような灰色の線がありました。
女性は、母親があのころ身ごもっていたことを思い出しました。
けれど、その子は生まれませんでした。戸籍にも、写真にも、名前にも残らなかったそうです。家族の中で、その話をする人はいなくなっていました。
ふと、質問票の端が、内側から濡れたように波打ちました。
濡れてはいません。紙は乾いています。ただ、母親のお腹の丸みに沿うように、ゆるく膨らんでいたといいます。女性が息を止めると、その膨らみも止まりました。息を吸うと、紙もまた少しだけ持ち上がりました。
彼女は空欄のまま封筒を閉じました。
翌朝、封筒は玄関の郵便受けに戻っていたそうです。投函した覚えはありません。宛名面には、彼女の住所の下に、もう一行、薄い灰の筋で書かれていました。
「比較されない方」
それを読んだ瞬間、室内の奥で、古いぬいぐるみの鈴が一度だけ鳴りました。そのぬいぐるみは、もう何年も前に処分したはずでした。
再び封筒を開けると、質問票は一枚増えていました。
増えた一枚には、すべての欄が空白でした。ただ、当時の年齢を書くところにだけ、小さく「内側」と記されていたそうです。筆跡ではなく、灰が紙に沈んでいるような文字でした。
女性は、その紙を提出しなかったといいます。
けれど数日後、調査の受付状況を知らせる画面には、彼女の分とは別に、もう一件、受領済みの印がついていました。識別番号は彼女のものと一桁だけ違っていました。生年月日も住所もありません。連絡先もありません。ただ、参加区分の欄だけが埋まっていました。
「胎内」
それから、女性の部屋では、朝になると机の上に灰色の指跡が残るようになりました。小さな指跡ではありません。紙の内側から押したような、丸くて浅い跡です。拭き取ると消えますが、次の朝にはまた、質問票の年齢欄の上にだけ戻っていました。
女性は最後に、未記入の質問票を小さな箱へ入れ、ぬいぐるみがあった棚に置いたそうです。
それ以来、指跡は出なくなりました。
ただ、調査の案内が更新されるたびに、彼女のもとへ届く封筒だけ、いつも一通多いといいます。余分な封筒には宛名がありません。開けても中は白紙です。けれど、白紙を光に透かすと、年齢欄の場所にだけ、灰でできた小さな丸みが浮かぶそうです。
それが誰の年齢なのか。
生まれなかった人にも、あの粉を吸った記憶があるのか。
女性は、まだ何も書き込めずにいるそうです……そんな話を聞きました。
この怪談は、以下の記事をきっかけに生成されたフィクションです。
Children of 9/11 to finally get a major health study | Reuters
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