その日は、店の軒先に吊られた温度計が四十度近くまで上がっていた。
歩道から立ちのぼる熱気を避けるように蕎麦屋へ入ると、冷房の風より先に、醤油と鰹節の匂いが鼻へ届いた。古い店だったが、昼時だけあって席はかなり埋まっていた。
奥の卓には、緑色のシャツを着た男が背中を丸めて座っている。その隣では白いシャツの若い男が腕を組み、さらに奥では紺色の服を着た客が、壁の品書きを眺めていた。
誰も大声では話していなかった。箸の触れ合う音と、蕎麦をすする音だけが、低い天井の下で絶えず重なっていた。
私は一人用の卓へ通され、瓶ビールと板わさを注文した。まず板わさで一杯やり、飲み終えたら、ざるそばを頼むつもりだった。
ビール瓶、冷えたグラス、板わさ、わさび、醤油の小皿。卓上に並んだものは、久しぶりの昼酒として申し分なかった。
ただ、醤油の小皿だけが二つ置かれていた。
一つは私の手前。もう一つは、向かいの誰も座っていない場所にあった。
店員の置き間違いだろうと思い、向かいの小皿を卓の端へ寄せた。すると厨房から出てきた年配の女性店員が、それを見て足を止めた。
女性は何も言わず、小皿を元の位置へ戻した。
怪訝に思いながらも、私はビールを注いだ。グラスの泡が落ち着くのを待ち、一切れ目の蒲鉾を箸で挟んだ。
醤油へ浸した瞬間、小皿の黒い表面に、もう一膳の箸が映った。
私の箸とは反対側から伸びていた。細く黒ずんだ箸先が蒲鉾へ触れ、私の箸との間で一切れを挟んでいる。
顔を上げても、向かいの席には誰もいない。
もう一度、小皿を見た。箸の影は消えていたが、蒲鉾の端には半月形の欠けができていた。
刃物で切ったような滑らかな欠けではない。歯のない口で、柔らかく噛み取ったように表面が潰れていた。
そのとき、店内から音が消えた。
蕎麦をすすっていた者も、酒を飲んでいた者も、全員が同じ姿勢で止まっている。箸を口元へ運びかけたまま、まばたきさえしていなかった。
数秒後、奥の男が一度だけ喉を鳴らした。それを合図にしたように、すべての客が同時に咀嚼を再開した。
だが、誰の箸にも食べ物は挟まっていなかった。
私は気味が悪くなり、ビールを一気に半分ほど飲んだ。グラスを置いた拍子に、瓶が少し傾いた。
茶色い瓶の胴を通して、向かいの席が歪んで見えた。
そこに、男が座っていた。
白く黄ばんだ半袖の肌着を着た、ひどく痩せた老人だった。肩は骨ばり、頬は落ちくぼんでいる。俯いた顔からは汗に濡れた髪が垂れ、唇の周囲だけが醤油を塗ったように黒かった。
老人は私を見ていなかった。
板わさだけを見ていた。
瓶から目を離すと、席は空になる。瓶越しに見ると、老人は再び現れた。両手は膝の上に置かれているのに、その指先だけが異様に長く伸び、卓の下から板わさの皿へ届いていた。
私は慌てて瓶を起こした。
女性店員がすぐそばに立っていた。
「瓶を寝かせないでください」
低い声だった。理由を聞こうとすると、女性は私の向かいにある小皿を見た。
「もう、底を覗きましたか」
私は答えられなかった。
奥の客たちは何事もなかったように食事を続けていた。しかし注意して見ると、誰も自分の料理をまっすぐ口へ運んでいない。
緑色のシャツの男は、蕎麦をひと口分つまむたび、まず隣の空席へ箸を差し出していた。白いシャツの男は、コップを飲む前に、何もない場所へ傾けている。
紺色の服の客の隣には、湯飲みが二つ並んでいた。片方からは、ときどき湯気が人の顔の輪郭を避けるように立ちのぼった。
瓶越しに店内を見た。
どの客の隣にも、誰かが座っていた。
首を折った女。濡れた学生服の少年。片方の目が潰れた作業着姿の男。髪も眉もない子ども。黒ずんだ浴衣を着て、両手を卓の上へ揃えた老婆。
それらは生きた客の肩へ身体を重ね、同じ箸を握っていた。
客が口を開くと、背後のものも口を開いた。客が噛むと、頬の横からもう一つの顎が現れ、少し遅れて同じ動きを繰り返す。
料理は一人分しかない。
けれど、食べている口は二つあった。
向かいの老人が、板わさへ手を伸ばした。
白い指が皿へ触れるたび、蒲鉾の表面がゆっくり沈んだ。老人の手は実物には見えない。それでも一切れ、また一切れと、皿の上の蒲鉾が何かに押し潰されていく。
奥の客たちが、同時に口を開いた。
その口の中には、それぞれ白い蒲鉾が一切れずつ入っていた。
同じ形、同じ厚さ、同じ半月形の欠け。ひとつしかないはずのものが、店内にいるすべての客の舌の上へ載っていた。
誰も噛まなかった。
白いものを口に含んだまま、全員が私の向かいの空席を見ていた。
女性店員が、ざるそばを運んできた。
「まだ頼んでいません」
私が言っても、女性は返事をしなかった。蕎麦を私の前ではなく、老人のいるはずの席へ置いた。
ざるの上の蕎麦は黒く艶を帯び、つゆの入った器からは細い湯気が出ていた。冷たいざるそばのはずなのに、その湯気からは線香を消した直後の匂いがした。
老人の頭が、ゆっくり持ち上がった。
髪の隙間に、目はなかった。
目があるはずの場所には、茹でた蕎麦が何重にも詰め込まれていた。短い麺が瞼の間から垂れ、頬を這い、黒い口元へ吸い込まれている。
老人が口を開くと、店中の客も口を開いた。
ざるの上の蕎麦が、一斉に持ち上がった。
箸でつままれたのではない。何十本もの麺が、生きた虫のように卓上を這い、客たちの口へ向かって伸びていく。
私は椅子を蹴って立ち上がった。
その拍子にビール瓶が倒れ、黄色い液体が卓から床へ流れ落ちた。床に広がったビールの表面へ、椅子や客の姿が逆さまに映った。
そこには、店内とは違う光景があった。
生きた客たちは椅子に座っていなかった。
椅子の下で、死者たちに背後から抱かれていた。
青白い腕が腹へ回り、長い指が客の手首へ食い込んでいる。死者の顎は客の肩へ載せられ、耳元から口の中へ黒い舌を差し込んでいた。
客が料理を食べているのではなかった。
死者たちが、客の身体を使って食べていた。
向かいの老人だけには、抱える身体がなかった。
老人は椅子から立ち上がり、私へ両腕を伸ばした。細い腕が卓を越え、胸元へ迫る。黒い爪の間には、潰れた蒲鉾の白い欠片が挟まっていた。
私は床のビールを踏み、入口へ走った。
背後で、全員が一斉に蕎麦をすする音がした。十人、二十人という人数ではない。畳の下、壁の奥、天井裏からも、無数の口が同じ蕎麦を吸い上げていた。
店を飛び出す直前、女性店員の声が聞こえた。
「向かいを空けたまま、帰らないでください」
外は変わらず、目を開けていられないほど明るかった。
私は炎天下を駅まで歩いた。店内に一時間近くいた感覚があったのに、腕時計を見ると、入店してから十二分しか経っていなかった。
帰宅して財布を開くと、支払った覚えのない会計票が入っていた。
瓶ビール 一
板わさ 一
ざるそば 八
その下には、薄い墨で「御相席 八名」と書かれていた。
会計票の裏側には、八つの丸い染みが残っていた。つゆの器を置いた跡らしく、どれもまだ湿っている。真夏の車内へ数時間放置しても、その染みだけは乾かなかった。
それから私は、その蕎麦屋へ行っていない。
だが昼時に飲食店へ入ると、必ず向かいの空席へ小皿が一枚置かれる。店員に下げてもらっても、目を離すと元の位置へ戻っている。
昨日、別の店で一人きりの昼食を取った。
何気なく醤油の小皿を見ると、黒い表面へ二膳の箸が映っていた。私の手は動かしていないのに、皿の上の刺身を一切れ挟み、向かいの空席へ運んでいた。
顔を上げることはできなかった。
テーブルの下で、誰かの膝が私の膝へ触れていたからだ。
ゆっくり噛む音がした。
そして私の喉も、何も飲み込んでいないのに、一度だけ動いた。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

