鉢が食べる隙間

写真怪談

冷蔵庫の脇にあったはずの隙間が、朝には消えていた。

壁との間には四センチほどの余裕があり、電源コードと細い掃除用ブラシを通していた。ところが冷蔵庫は壁へ隙間なく密着し、指先どころか紙一枚も入らない。床に残る脚の跡は昨夜と同じ位置だったので、冷蔵庫が動いたわけではなかった。

電源コードは壁の中へ吸い込まれていた。黒い被覆だけが壁紙の表面に薄く浮き、押すと温かい。冷蔵庫は何事もなく動いていたが、コードの厚みは完全になくなり、黒い線として壁に印刷されたようになっていた。

窓辺では、ハエトリグサの捕虫葉が一つ閉じていた。

その鉢は、二週間前まで隣室に住んでいた野村という老女から預かったものだった。浅い鉢いっぱいに苔と細い草が生え、その間から黄緑色の捕虫葉がいくつも立ち上がっている。手入れを頼まれたわけではない。退去の日、管理人を通じて「捨てるなら、葉が全部閉じてからにしてください」と書かれた紙と一緒に渡された。

佐伯は園芸に興味がなかったが、枯らすのも気が引けた。受け皿へ水を足し、日当たりのいい台所の窓辺へ置いた。部屋には小蝿も蚊もほとんどいなかったため、捕虫葉はいつも明るく開いていた。

冷蔵庫の異変が起きる前夜、佐伯は乾いた音を聞いている。

ぱちん、と爪を切るような音だった。目を覚まして台所を見ても誰もいない。月明かりの中で、鉢の葉が一つだけ閉じていた。虫でも入ったのだろうと思い、そのまま眠った。

四日後、その葉が開いた。

内側に虫の死骸はなかった。代わりに、濡れた薄皮のようなものが挟まっていた。ピンセットで取り出すと、片面には淡い花柄があり、もう片面には黒い筋が走っている。

花柄は部屋の壁紙と同じだった。黒い筋には、冷蔵庫の電源コードと同じ細かな傷まで付いていた。

次に消えたのは、靴箱の下だった。

それまで靴箱は短い脚で床から浮いており、古い十円玉が一枚転がり込んでいた。二度目の音がした翌朝、脚は床へ沈んだように見えなくなり、靴箱の底板が直接フローリングへ接していた。十円玉は潰れていなかった。床と底板の両方に、銅色の円だけが半分ずつ染みついていた。

閉じた葉が開くと、中から銅色の膜が出てきた。片側にはフローリングの木目、反対側には靴箱の底板の傷が写っている。端には十円玉の「十」の字が、引き伸ばされたように細く残っていた。

佐伯は部屋中の隙間へ、細長く切った厚紙を差し込んだ。棚と壁の間、カーテンと窓ガラスの間、机の引き出し、押し入れの襖、玄関扉の下。植物が本当に隙間を奪っているのなら、厚紙に何か起こるはずだった。

夜中、台所から三回続けて音がした。

朝になると、棚と壁の間へ差した紙は消えていた。破れた切れ端もない。机の引き出しは閉じたまま動かなくなり、取っ手を引くと、家具全体が揺れた。玄関扉の下へ入れた紙だけは残っていたが、差し込まれていた部分の長さがなくなり、切断面は熱で溶かしたように滑らかだった。

巻尺で部屋の幅を測ると、契約書の間取りより十一センチ短くなっていた。外廊下から外壁を測っても建物の寸法は変わっていない。消えた十一センチが壁の中へ移った形跡もなかった。

部屋の内側だけから、空間が抜き取られていた。

管理人を呼ぶと、彼は鉢を見た途端に玄関で足を止めた。野村の部屋も、退去直前には同じ状態だったという。家具が壁へ密着し、扉や窓が開かなくなり、最後には布団と床の間に手を差し込めなくなった。

「本人は、どこにいたんですか」

佐伯が尋ねると、管理人は答えなかった。代わりに、鉢を早く外へ出そうと言った。

二人は厚手の手袋を着け、鉢へ触れないよう園芸用の長い挟み具を使った。窓辺から鉢を持ち上げた瞬間、土の中で硬いものが砕ける音がした。開いていた捕虫葉が一斉に揺れ、そのうち二つが閉じた。

管理人と佐伯の間にあった距離が消えた。

二人の身体が突然ぶつかり、管理人の眼鏡が割れた。歩いたわけでも、引き寄せられたわけでもない。肩と肩の間にあった一メートルほどの空間だけが、切り取られたようになくなった。

続けてもう一枚が閉じた。

窓ガラスとカーテンの隙間が消え、布地がガラスの内部へ平らに埋まった。さらに一枚が閉じると、テーブルの脚と椅子の間がなくなり、木材同士が継ぎ目もなく癒着した。鉢の苔はゆっくり盛り上がり、その表面へ壁紙や木目に似た細かな模様が浮かんでいった。

玄関扉が閉じ始めた。

誰も触れていないのに、扉と枠の間の空間が細く削られていく。佐伯と管理人は鉢を置き、身体を横向きにして廊下へ逃げた。二人が外へ転がり出た直後、扉は音もなく枠へ密着した。

鍵穴も、郵便受けの口も、扉の輪郭さえ残らなかった。廊下の壁に、玄関扉の色をした長方形が描かれているだけだった。

消防と警察が呼ばれ、隣室の壁を壊して室内へ入ることになった。だが穴を開けた先に部屋はなかった。コンクリートの向こうには別のコンクリートがあり、本来あるはずの空間が建物のどこにも見つからなかった。

床面積にすれば二十六平方メートル。

家具も家電も、ハエトリグサの鉢も、佐伯の部屋にあったものはすべて、空間ごと消えていた。

廊下には、濡れた薄皮が一枚落ちていた。片面には玄関扉の塗装、もう片面には室内側の壁紙が写っていた。中央には、苔のような緑色の繊維が数本絡んでいた。

佐伯はそれを小さな樹脂ケースへ入れ、証拠として保管した。ところが一週間後、ケースは板のように平らになっていた。蓋と底の間にあった空間がなくなり、薄皮も緑色の繊維も、透明な樹脂の内部へ模様として埋まっていた。

それから佐伯は、物と物の間に手を入れなくなった。エレベーターでは壁から離れ、電車では人と肩が触れない位置を選び、眠るときも指を開いたままにしていた。

昨夜、右手の小指と薬指の間で、あの音がした。

朝になると、二本の指は第一関節まで滑らかな皮膚で繋がっていた。傷も痛みもなく、生まれつきそうだったように指の間だけが消えている。

残っている指の隙間は、もう眠るたびに少しずつ狭くなっている。

この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

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