そのビルの二階には、外から見上げると小さな温室みたいなベランダがあった。
鉄の欄干の内側に、鉢植えがぎっしり並んでいる。南国の葉、細いヤシ、羊歯のような葉。昼間はそこだけ強い日差しを受けて、緑が白く光る。右端には丸い灯りの傘と、小さな置物が見える。古い喫茶店の二階だと聞いていた。
ただ、ひとつだけ妙なものがあった。
欄干の中央あたりに、透明な傘袋のようなものが引っかかっていた。中には白い折りたたみ傘が入っているようにも見えたが、柄も石突も見えない。細長い濡れた膜だけが、植物の影の奥で、昼でも薄く光っていた。
店の常連だった知人は、その傘袋が前から気になっていたそうだ。
雨の日ならわかる。けれど、その週はずっと晴れていた。しかも店の入口は一階にあり、二階のベランダへ客が上がることはない。店主に聞いても、ああ、あれね、と曖昧に笑うだけで、誰のものか答えなかった。
ある昼、知人は窓際の席から二階を見上げていた。
風はなかった。葉は日差しで細かく震えているだけだった。ところが、傘袋の内側だけが、下から息を吹き込まれたように膨らんだ。
水が入っている、と思ったという。
透明な膜の内側で、細かな泡が上へではなく、下へ落ちていく。傘袋の先端に集まった泡は、そのまま欄干の黒い鉄へ染み込み、乾いた錆の上に小さな濡れ跡を残した。
翌日、傘袋は少し外へ出ていた。
欄干の隙間から、半分ほど身を乗り出している。落ちそうなのに落ちない。植物の葉がそれを支えているようにも見えたが、よく見ると違った。袋のほうが葉を押さえていた。葉の縁が透明な膜の下で潰れ、そこだけ色が抜けていた。
三日目には、欄干の下の壁に、筋がついていた。
水垢ではない。土でもない。細い指で何度も撫でたような、白っぽい跡だった。二階から一階へ降りていくのではなく、一階から二階へ這い上がる向きに、ざらざらと残っていた。
知人は店主に、あれは片づけたほうがいいんじゃないか、と言った。
店主はコーヒーを置きながら、顔を上げずに答えた。
「あれ、片づけると戻るんです」
その夜、閉店後に一度捨てたことがあるらしい。袋を外すと、ずしりと重かった。傘一本の重さではない。濡れた布団を丸めたように腕へ沈み、先端から黒い水がぽたぽた落ちた。袋の中には傘など入っていなかった。ただ、細く丸まった根が、白い骨みたいに何本も絡んでいた。
店主はそれをゴミ袋に入れて、店の裏へ出した。
翌朝、ベランダの欄干には、同じ傘袋が戻っていた。
しかも、前より内側へ深く入り込んでいた。鉢植えのあいだに白い根が伸び、いくつかの鉢は土の表面だけが妙に沈んでいた。水をやった覚えのない鉢の受け皿に、水ではなく、薄い灰色の泥が溜まっていた。
知人がそれを聞いた日の夕方、店の二階から、がたん、と音がした。
客はみな一階にいた。店主もカウンターの中にいた。なのに、誰かがベランダの鉢を動かしたような音が、頭上を横切った。
見上げると、欄干の向こうで傘袋が揺れていた。
揺れているというより、呼吸していた。
膨らみ、しぼみ、また膨らむ。そのたびに袋の表面へ内側から何かが押しつけられた。骨ではない。葉でもない。人の指先に似た丸いものが、五つ、膜の向こうへ並んだ。
それは外を向いていなかった。
店内を覗くように、内側へ向いていた。
店主はすぐに二階へ上がった。知人も後を追った。ベランダの戸を開けた瞬間、むっとした土の匂いがした。鉢植えはどれも無事だった。ただ、中央の鉢だけが空になっていた。植物は残っている。葉も茎もある。けれど土だけが、きれいに抜かれていた。
空の鉢の底には、透明な傘袋の先端が差し込まれていた。
袋は欄干から鉢へ、鉢から床へ、床から壁際へと、薄く伸びていた。もう傘袋ではなかった。濡れた膜がベランダの隅々を覆い、鉄の柵の間をひとつずつ塞いでいた。
店主がハサミでそれを切ろうとした。
その瞬間、欄干の外側から、ぼとり、と土が落ちた。
下の歩道ではなかった。二階の外、何もない空中から、濡れた土が落ちたのだ。続けて、もう一つ。鉢の中身を、見えない誰かが外から握ってこぼしているようだった。
知人はそこで、欄干の右端の置物がこちらを向いているのに気づいた。
いつもは横を向いていたはずの小さな像が、丸い灯りの下で、正面を向いていた。顔は影で見えない。ただ、その膝のあたりに、白いものが絡んでいた。傘袋の膜が、まるで誰かの手足を包むように、細く巻きついていた。
店主はそれ以上触らなかった。
翌朝、傘袋は消えていた。
鉢植えも欄干も、いつものように日を浴びていた。ただ、中央の鉄柵だけが一本、少し外へ曲がっていた。人が身を乗り出して曲げたような曲がり方ではない。外から内側へ、細いものが何度も通ったあと、最後に戻りそこねたような歪みだった。
その日から、そのベランダでは雨が降っていない日でも、透明な雫が落ちる。
雫は地面に落ちない。途中で止まり、ゆっくり上へ戻っていく。
知人はもうその店へ行っていない。
けれど先月、近くを通ったとき、二階を見上げてしまったそうだ。欄干の内側には相変わらず植物が茂っていた。丸い灯りも、置物もあった。
ただ、中央の鉢の土だけが、やけに盛り上がっていた。
土の表面に、透明な薄い膜が一枚張っている。その下で、白い根のようなものが五本、内側から欄干を握る形に並んでいた。
そして欄干の外側には、乾いた昼の光の中で、濡れた手形だけが残っていた。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

