その建物は、古い街区の一角に建つ灰色の中層ビルだった。片側は別の建物とほとんど接するほど狭く、反対側には小さな公園がある。屋上には外壁工事用の仮設材が組まれ、曇った日の午後、二人の作業員がロープに身体を預けて壁面の点検をしていた。
仕事は、コンクリートのひびや目地の劣化を確認するだけのものだった。二人は数メートル離れて並び、それぞれ二本のロープを使って上からゆっくり降りていた。下の公園側には作業区域を示す柵が置かれ、地上にも一人、連絡役の作業員が残っていた。
使っていたロープには、長さを確認するための印が付いていた。その会社では現場へ持ち出す前に一本ずつ長さを測り、途中の決まった位置へ細い赤線を入れていた。問題の一本には、ちょうど中ほどに一か所だけ、指一本ぶんほどの赤い印があった。
その印は少し特徴的だった。乾く前に何かへ触れたらしく、赤い線の一部が小さな三角形に欠けていた。その横には針で突いたような黒い点もあり、ロープを準備した作業員自身が覚えていた。
午後二時を過ぎたころ、片方の作業員が建物の中ほどまで降りた。窓と窓のあいだにある広いコンクリート面を確認しながら下降器へロープを送っていると、右手の下を赤いものが通った。
例の印だった。
予定していた位置より少し早い気はしたが、そのときは気にしなかった。作業員はそのまま降り続け、下の階の窓枠へ視線を移した。風は弱く、身体が大きく振られることもなかったという。
四十秒ほどして、また右手の下を赤い線が通った。
作業員は手を止めた。さっき見たものと似た別の汚れだと思い、身体を少し持ち上げてロープを確かめた。赤い線の端が三角形に欠け、そのすぐ横に黒い点がある。
同じ印だった。
隣で作業していたもう一人を呼び、ロープを見てもらった。二人は壁面で顔を合わせるように身体の位置を調整し、問題の部分を指で示した。隣の作業員も、その印には覚えがあった。屋上でロープを広げたとき、一度見ていたからだ。
地上から無線が入ったのは、その直後だった。
「そこで何してる?」
二人は、印を確認しているだけだと答えた。すると地上の作業員は妙なことを言った。
片方が三分近く、まったく同じ高さにいるという。
本人には意味が分からなかった。下降器にはずっとロープを通していたし、感覚では少なくとも五、六メートルは降りている。目の前の壁も流れていた。上の窓枠が遠ざかり、下の窓へ近づいているように見えていた。
ところが隣にいる作業員から見ると、ほとんど位置は変わっていなかった。
二人は黙って、問題のロープを見た。作業員が数センチだけ下降器を緩めると、ロープは確かにその中を滑った。擦れる音も、掌へ伝わる感触もいつも通りだった。
身体だけが降りなかった。
さらに奇妙なのは、下へ垂れているロープだった。普通なら下降器を通したぶんだけ、足元側の長さが増えていく。だが地上から見ると、垂れ下がった先端の位置は動いていないという。
作業員はすぐ下降器を固定した。
そのとき、頭上から赤い線が降りてきた。
ゆっくりと身体の前を通り、固定した下降器のすぐ上で止まった。三角形の欠け。黒い点。間違いなく、さっき二度通過したものと同じだった。
隣の作業員が手袋でその部分をつまんだ。塗料は乾いている。それでも指を離すと、手袋の表面に細い赤色が付いていた。
二人は作業を中止した。隣の作業員が予備側のロープを使って位置を寄せ、問題の作業員を別の系統へ移した。異常の出ている一本にはそれ以上触れず、二人でゆっくり地上まで降りたという。
下から見上げると、残されたロープは灰色の壁に沿って真っすぐ垂れていた。揺れてもいない。途中に人がぶら下がっていた形跡など、何もなかった。
ところが屋上へ戻ってロープを回収し始めたとき、三人とも手を止めた。
赤い印が四つあった。
一つ目から三・二メートル下に二つ目、その三・二メートル下に三つ目、さらに同じ間隔で四つ目があった。どの印も赤線の同じ場所が三角形に欠け、同じ位置に黒い点がある。並べて見ても、どれが最初の印なのか区別できなかった。
ロープはその場で使用禁止になった。事務所へ戻って長さを測ると、持ち出し前の記録より九・六メートル長くなっていたという。
三・二メートルが、三本ぶん。
荷重を外したばかりだからではないかと言う者もいた。翌朝もう一度測った。それでも長さは変わらなかった。四つの赤い印の間隔も、三・二メートルのままだった。
メーカーへ送る話も出たが、会社はまず現物を残すことにした。ロープは大きな透明袋へ入れ、口を封じて器材庫に保管された。下降器も回収され、内部を確認すると、金属の擦れる部分に細い赤色が何本も残っていた。
作業員はその後、同じ建物での作業から外れた。建物そのものに異常は見つからず、あの高さには特別な設備も空洞もないと説明された。外壁図面を見ても、二人が止まっていた場所は、窓と窓のあいだのただのコンクリートだった。
半年ほどして、保険関係の確認のため、保管していたロープをもう一度調べることになった。
透明袋の封印は切れていなかった。
器材担当者が立ち会いのもとで袋を開け、床へロープを伸ばした。長さは六十メートル。最初に会社が記録していた、本来の長さへ戻っていた。
赤い印も一つしかなかった。
そこで終われば、測定ミスだったということにできたのかもしれない。
空になったはずの透明袋の底に、短いロープが三本残っていた。
一本につき、三・二メートル。
三本とも両端は切断されたようには見えず、繊維がほつれてもいなかった。最初からその長さで作られた製品のように、端だけが滑らかに固まっていたという。
そして三本すべての中央には、赤い印があった。
同じ場所が三角形に欠け、その横に、同じ黒い点が付いていた。
問題の建物では、現在も外壁の点検が行われている。
ただ、当時の作業員二人はもうロープを降ろす前に、長さだけを確認することはないという。床へ一本ずつ伸ばし、途中に付いている印を最初から最後まで数える。
一つしかないことを確認してから、屋上の縁へ持っていく。
二人とも、壁に吊られてから数えることだけは、二度としない。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

