庭に面した一階の部屋は、夜になるといつも橙色に明るくなった。厚いカーテンを通した光の中に、丸いテーブルや椅子、背の高い鉢植えの輪郭が黒く浮かぶ。生垣の向こうから眺めると、誰かの暮らしだけを切り取って箱の中へ入れたように見える部屋だった。
その部屋には、一人暮らしの住人がいた。近所付き合いはほとんどなかったが、夜になると照明をつけ、必ずカーテンを端まで閉めることだけは、庭側の部屋に住む者なら何となく知っていたらしい。
異変が始まったのは、その住人が室内で亡くなったあとだった。
発見まで数日かかったという。遺体が運び出され、管理会社が室内を確認したあと、電気のブレーカーは落とされた。窓も施錠され、遺族が来るまで家具には触れないことになった。
その夜、午前二時を過ぎたころだった。
庭に面した別の部屋で、細長いものを何度も擦る音がした。
シャアァ……。
少し間を置いて、もう一度。
シャアァ……。
金属の棒の上を、カーテンの輪がゆっくり滑っていくときの音によく似ていた。音は壁越しではなく、明らかに庭のほうから聞こえていたという。
亡くなった住人の部屋を見ると、カーテンは閉まっていた。端から端まで隙間なく閉じている。そもそも、これ以上引く余地などなかった。
翌朝、管理人が室内を調べた。窓は内側から施錠されたまま。カーテンレールにも異常はなく、十数個ある金属製の輪も普通に動いた。風で揺れた可能性を考えたが、サッシは閉じており、換気扇も停止していた。
念のため、カーテンの輪すべてを細い結束帯で固定した。左右へ滑らないよう、輪とレールの金具を一つずつ留めたのである。管理人は位置が分かるよう鉛筆で小さな印まで付けた。
その夜も、午前二時を過ぎると音がした。
シャアァ……。
音は右端から始まり、数秒かけて左へ移動した。
カーテンそのものは動かなかった。
庭から見張っていた住人には、それがかえって気味悪く見えたという。布は微動だにしないのに、レールのあたりだけを何かがゆっくり横切っている。音の位置だけが、窓の端から端へ進んでいった。
翌日、結束帯を確認した。一本も切れていなかった。鉛筆の印もずれていない。
管理人は清掃業者の一人と、その夜、部屋に残ることにした。電気はつけず、懐中電灯だけを用意した。外から見れば橙色に明るかった部屋も、ブレーカーを落とした室内はひどく暗く、庭の照明がカーテンの縁を薄く浮かび上がらせているだけだった。
二時十二分までは、何も起こらなかった。
二時十三分になった瞬間、窓際で布を爪の先で擦るような音がした。二人が同時に顔を上げると、閉じたカーテンの右上が、ゆっくり室内側へ膨らんだ。
風ではなかった。
人間の額ほどの丸い膨らみができ、その下に鼻のような突起が浮いた。そのさらに下では、布が細く窪み、口を開いた形になった。誰かがカーテンの裏側から、顔を強く押しつけているように見えたという。
問題は、カーテンと窓ガラスの隙間だった。
十センチもない。
人間の頭が入る空間ではなかった。
管理人は反射的にカーテンを掴み、一気に横へ払った。結束帯が引っ張られて何本か切れ、輪が激しく鳴った。懐中電灯の光が窓一面に当たった。
何もいなかった。
窓は閉まっている。鍵も掛かっている。ガラスとカーテンの間には、手を差し込む程度の隙間しかない。
清掃業者が、声を出さずに窓の上を指さした。
カーテンレールの輪が、一つだけ揺れていた。
左右ではなく、前後に。
まるで、たった今まで誰かが指を入れていた輪から、指だけを抜いたように。
その夜はそこで確認を打ち切った。翌朝、明るくなってからカーテンを外したところ、さらに妙なものが見つかった。
布の裏側、つまり窓ガラスに向いていた面に、茶色く変色した跡が並んでいた。五つずつ一組になった細長い染みが、カーテン上部に何組も付いている。
指の跡に見えた。
しかも、どれも布を下から掴んだ跡ではなかった。人差し指から小指までの向きを考えると、窓側から手を伸ばし、カーテンの上端を掴んだ形になる。
洗浄しても染みは消えなかったため、カーテンは処分された。レールも古かったので取り外され、壁の穴を埋めて塗装し直した。窓だけになった部屋では、それからしばらく音がしなくなった。
数週間後、新しい住人が入った。
引っ越し直後だったため、まだカーテンもレールも取り付けていなかった。窓には何もない。部屋の中から庭まで直接見渡せる状態だった。
最初の夜、新しい住人から管理会社へ連絡が入った。
「窓の上から、何か引きずる音がするんです」
管理人はすぐには意味が分からなかった。カーテンもレールもないことは自分で確認している。
住人によれば、午前二時十三分になると、窓の右上から音が始まるのだという。
シャアァ……。
音が左へ進むにつれて、裸の窓から入ってくる庭の光が、細い縦縞になって一列ずつ消えていく。
まるで、そこには見えないカーテンがあり、それを誰かがゆっくり閉めているように。
二日目の朝、管理人が部屋を訪れた。
窓の上の壁には、塗り直したばかりの白い塗装が残っていた。その表面に、昨日までなかった浅い傷が何十本も並んでいた。
半円形の傷だった。
以前、カーテンレールに通されていた金属の輪と、ほぼ同じ大きさだったという。
新しい住人は一週間もせず退去した。その部屋は現在も空いている。
カーテンもレールも取り付けられていない。
ただ、庭側の住人の中には、深夜にあの窓を見ないようにしている者がいる。
何もないはずの窓が、ときどき橙色に明るくなるからだ。
そして、ごくまれに、その光の中へ二本の白い腕だけが浮かぶ。
腕は頭上へ伸び、何もない空中を掴む。
そのまま右から左へ、ゆっくりと何かを引いていく。
腕の動きに合わせて、窓は一筋ずつ暗くなっていくという。
最後の一筋まで光が消えると、必ず聞こえる。
部屋の中からではない。
カーテンもガラスも通り越した、もっと近いところから。
耳のすぐ横で、布を閉めきる音がするのだそうだ。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

