休日の昼だった。用事もなく、夕方まで誰と会う予定もない。そういう日に昼から飲む酒は、妙にうまい。
その店では、赤いバイスハイボールとホルモン焼きそばを頼んだ。氷の詰まったジョッキは冷たく、焼きそばは鉄板から移されたばかりで、甘辛いソースと脂の匂いが湯気に混じっていた。二口ほど飲んだところで、焼きそばの手前側がぼやけて見えることに気づいた。
酔いが早いな、と思った。けれど妙だった。ジョッキのラベルも、その向こうに積まれた空のグラスもくっきり見えるのに、自分に近い焼きそばだけが焦点を結ばない。
顔を近づけても変わらなかった。目を細めても、片目を閉じても同じだった。麺の一本一本が見えないというより、そこだけ表面の細かさを失っているように見えた。
箸を伸ばした。
手の甲が焼きそばの上まで来た瞬間、指先がぼやけた。
反射的に手を引くと、また普通に見えた。酔っているだけなら、自分の手だけ急に焦点から外れるはずがない。もう一度、今度はゆっくり伸ばしてみると、テーブルの縁から十五センチほど先で、人差し指の爪の輪郭が溶けたように曖昧になった。
感覚はある。熱さも、箸を握る圧力も分かる。ただ、ぼやけている部分へ親指を滑らせると、指紋のざらつきがなかった。
焼きそばを一本つまんだ。ぼやけた範囲から引き出すにつれ、麺の表面にソースの照りが戻り、細かな焦げ目まで見えるようになった。ところが口へ運ぶと、途中まで舌触りがなかった。
味はした。熱くもあった。ただ、表面というものがない。
つるつるしているのとも違う。舌が触れているはずなのに、麺がどんな形をしているのか、口の中でまったく分からなかった。噛んだ瞬間だけ、突然いつもの焼きそばに戻った。
そこで酒をやめた。
水を頼み、店員がグラスを置くのを見ていた。そのグラスの底が例の場所へ入ると、ガラスに付いていた細かな擦り傷が消えた。店員が手を離したときには、底の一部だけ新品のように滑らかになっていた。
ぼやけているのは、私の目ではなかった。
テーブルの上に、見えない境目があった。
試しに爪の先で木目をなぞった。境目のこちら側にはざらつきがある。そこを越えた途端、木目の溝が消えた。指で何度こすっても、木そのものは残っているのに、年輪も細かな傷も、油染みさえ感じられなくなっていた。
私は椅子を後ろへ引いた。すると境目も一緒に下がった。
テーブルに固定されているのではない。
私の身体から、一定の距離にあった。
立ち上がると、椅子の背もたれの一部がぼやけた。右手を前へ出すと、二本の指がそこへ入った。慌てて腕を引いたとき、人差し指と中指の腹から指紋が消えていた。
皮膚は傷ついていない。血も出ていない。ただ、薄いゴムを張ったように完全に滑らかだった。
店を出て十分ほど歩くと、ぼやける範囲は消えた。看板も道路も自分の靴も普通に見える。酔いもほとんど醒めていたが、二本の指だけは戻らなかった。
三日後、その店へ行った。
店員は私の顔を見るなり、少し嫌な顔をした。昼飲みの客が何か粗相でもしたのかと思ったが、案内されたのは前回座った席だった。
テーブルの一部だけ、木目がなかった。
直径四十センチほどの楕円形で、その内側だけがのっぺりしている。サンドペーパーで削ったわけではなく、表面の高さは周囲とまったく同じだった。木目、傷、塗装の刷毛跡までが、その範囲だけ初めから存在しなかったように消えていた。
さらに妙なのは、皿だったという。
私が帰ったあと、片づけようとした焼きそばの皿には、ソースも油も残っていた。ところが皿の手前側だけ、陶器の釉薬にあるはずの細かな凹凸が消え、印刷されていた模様の縁まで滑らかになっていたそうだ。
割って処分しようとすると、その部分だけ金槌の跡が付かなかった。
力を込めれば割れる。しかし砕けた断面にも、ざらざらした陶器の粒がない。触ると硬いのに、何でできているのか指先では判断できなかったという。
店はテーブルを交換した。
外した天板は捨てず、倉庫へ入れたそうだ。処分業者に渡したところ、「材質が判別できない部分がある」と戻され、それ以来、厚いビニールで包んで保管している。
それから半年ほど経つ。
私の指紋は戻っていない。皮膚科でも、傷や薬品による損傷ではないと言われた。汗腺は働いているのに、二本の指だけ皮膚の隆線が完全に失われている。
ただ、それ以外の異変は起きていない。
あの席に座らなければ、何もぼやけない。
だから最近まで、酒に酔ったせいで妙なものを見たのだと思うことにしていた。
先週、その店の店長から連絡があった。
倉庫整理で、包んでいた天板を久しぶりに出したらしい。
木目のない範囲は広がっていなかった。
その代わり、中央に二本だけ、細長い筋が残っていたという。
指の幅だった。
店長が定規で測って写真を送ろうかと言ったが、私は断った。
右手の人差し指と中指が、その電話を受けている間だけ、何に触れても感触を返さなくなっていたからだ。
今、その二本には透明なテープを巻いている。
輪郭をなくしたもの同士が、もう一度触れないように。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。


