零番回線

写真怪談

午前一時十六分、繁華街の電柱で、風もないのに一本の黒い線だけが細かく震え始めた。太い電力線や通信線が幾重にも交差し、その下では街灯が白く光り、監視カメラが通りを見下ろしている。その中に混じった細い一本だけが、弦を爪ではじいたあとのように震えていた。

夜間工事に入っていた保守会社の作業員は、その線を翌朝撤去する予定だった。線は電柱から隣の古い雑居ビルへ伸びているが、通信会社の記録では、その建物に残る古い固定回線は十八年前にすべて廃止されている。何より妙なのは、震えが電柱側からではなく、建物の中から伝わってきていることだった。

測定器を接続すると、針が一定の間隔で小さく落ちた。数回続いて止まり、しばらくするとまた同じ動きをする。通話音も信号音もない。ただ、古い黒電話のダイヤルを回したあと、機械の内部で接点が戻っていくときのような、ごく微かな振動だけが線を伝っていた。

翌日、ビルの管理をしている老人に尋ねると、四階には昔、表に看板を出さない事務所が入っていたという。登記上は小さな印刷会社だったが、実際には電話で賭けを受けるノミ屋だったらしい。まだ携帯電話のない時代、机を並べた部屋に何台もの電話機を置き、夜になると客からの連絡を受け続けていた。

警察が入ったあと、店は一晩で消えた。電話機も帳簿も持ち出され、従業員たちも戻らなかった。ただし壁の配線だけは、そのまま残されたという。

「十四本あったんですよ」

老人はそう言ったあと、少し考えてから言い直した。

「いや、十四本しか契約してなかった、というほうが正しいかな」

現在の四階は倉庫になっていた。古い棚を動かすと、壁紙の下から小さな端子板が現れた。錆びたネジが二列に並び、その脇には油性ペンで一から十四まで番号が振られている。

その一番下に、もう一組だけ端子があった。

番号は「0」だった。

十四までのネジには埃と緑青がこびりついているのに、零番だけは妙にきれいだった。誰かが最近ドライバーを当てたように、ネジの溝まで光っている。そこから伸びる黒い線を追うと、壁を抜け、外壁を伝い、問題の電柱へ向かっていた。

老人は零番について覚えていた。店で働いていた男たちは、それを電話とは呼ばず「呼出し」と呼んでいたという。何に使う線だったのか尋ねても、老人は首を振った。

ただ、金を払えなくなった客が夜中に事務所へ連れてこられることはあったそうだ。そのときだけ奥の部屋から椅子が一脚運び出され、零番の端子板の前に置かれた。

それ以上のことは知らないという。

保守会社は通信会社と確認を取り、電柱側で零番の線を完全に切断した。切った端は絶縁処理を施し、互いに触れないよう別々に固定した。これで建物側から何が起きても、電柱へ信号が届くはずはない。

その夜、午前一時十六分。

四階の端子板が震え始めた。

最初は零番だけだった。やがて一番、二番、三番と、錆びたネジが順番に細かく鳴り始めた。十四番まで行くと静まり、数秒後、また零番から始まる。倉庫の壁全体へ耳を当てると、内部のどこか遠くで、何十個もの金属片が一斉に戻っていくような振動が続いていた。

電柱との接続は切れている。

それでも零番だけは、外へ何かを送り続けていた。

翌朝、作業員たちは線そのものを抜くことにした。壁際で切断し、ペンチで引くと、古い黒い被覆がするすると出てきた。外壁から端子板までなら、長く見積もっても十五メートルほどしかない。

二十メートル引いても終わらなかった。

三十メートルを越え、床に黒い線の山ができても、壁から出てくる長さは変わらない。外へ出て確認すると、電柱から建物へ伸びている切断済みの線にも弛みはなかった。

四十メートルを過ぎたころ、倉庫に古い煙草の匂いが満ち始めた。灰皿へ何十本も押し込んだあとのような、脂っぽい臭気だった。床へ積み重なった線の被覆にも、ところどころ黄色く変色した部分が現れた。

作業員の一人が線を拾い上げた瞬間、歯の奥が震えた。

音ではない。奥歯から顎の骨へ、細かな振動が直接伝わってきた。線を放すと止まり、握るとまた始まる。やがて胸骨の中央まで同じ振動が降りてきたため、線を床へ投げ捨てた。

その直後、壁際に置かれていた古いパイプ椅子が軋んだ。

誰も触れていなかった。座面だけがゆっくり沈み、誰かが腰を下ろした程度の深さで止まった。背もたれには何の変化もないのに、四本の脚が床を強く押し、埃の上に新しい圧迫痕を残した。

作業はそこで中止された。

引き出した線はすべて切り分け、袋へ入れた。壁から残った零番も根元で切断したため、端子板からは数ミリの銅線しか出ていなかった。

翌朝、その銅線は二センチほど伸びていた。

担当者は赤い塗料で先端を染め、長さを測った。さらに翌朝には三・八センチ。その次の日には五センチを越えた。伸びた部分には赤い塗料がなく、銅は切りたてのように明るかった。

壁の内部を調べるため、小さなコアを抜く工事が行われた。設計図では、その場所には配管も空洞もない。実際、取り出した円柱状のコンクリートにも管は入っていなかった。

だが断面の中央を、髪の毛ほどの黒い筋が貫いていた。

コンクリートの模様ではなかった。筋の中心を削ると、細い銅色の金属が出た。零番の端子から伸びている位置と正確に一致していたが、周囲のコンクリートには穴も継ぎ目もない。まるで建物を造ったときから、銅線ごと石の中へ固めたようになっていた。

そのコアは保守会社へ持ち帰られた。半年ほど机の引き出しに保管されていたが、ある朝、黒い筋が端から端まで抜け落ちていたという。

コンクリートには穴が残っていなかった。

零番の端子板は金属板で覆われた。ビルもすぐには取り壊されず、上階を倉庫にしたまま使われ続けた。それ以降、誰も黒い線を引き出そうとはしなかった。

数年後、当時の作業員の一人が別件でその通りを訪れた。以前より整理された配線の中に、見覚えのある細い黒色が一本混じっていた。

古い雑居ビルから伸びていた。

線の先は、監視カメラの近くに新設された通信箱へ入っていた。工事記録を確認したが、その線を接続した業者はいない。通信会社にも電力会社にも該当する設備はなかった。

箱を開けると、中の予備端子に短い銅線が一本だけ巻きつけられていた。工具で圧着したものではない。むき出しの銅線を何度も指でねじり、端子へ巻いたような留め方だった。

その場で外し、証拠として袋へ入れた。

翌朝、同じ場所に新しい銅線が巻かれていた。

今では、その通信箱は開けないことになっている。繁華街の客足が途切れる午前一時十六分ごろ、電柱へ手を触れると、ごく細かな振動が掌から骨へ伝わってくることがあるからだ。

音は聞こえない。

それでも、昔の黒電話を知っている人には分かるという。

どこかで、呼出しが続いている。

この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

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