住宅街の外れに、街路樹が並ぶ広い舗装路がある。歩行者と自転車が行き交う道で、路面には進行方向を示す白い矢印が描かれている。その少し手前には、大きな白い四角形があり、中に「左へ」という文字が書かれていた。塗装はところどころ薄くなっているが、昼間なら誰でも読める。
この道には、地元の若者のあいだで、昔から心霊スポットとして知られている場所がある。問題の「左へ」という文字と、その先に立つ一本の太い街路樹の周辺だという。深夜になると、そこに亡くなった人たちが現れるという噂だった。ただし、幽霊が見えるという話よりも、そこを通ったあとで身体に奇妙なものが残る、という話のほうが多かったらしい。
数年前、近くの飲食店で働いていた男性が、同僚と二人でその場所を訪れたことがあった。閉店作業が長引き、店を出たのは午後十一時を過ぎていた。二人とも以前から噂を聞いており、仕事帰りに一度だけ確かめてみようという話になった。普段なら立ち寄らない場所だったが、その夜は妙に気が大きくなっていたという。
道に着いたとき、周囲に人の姿はなかった。街灯の明かりがアスファルトを薄く照らし、オレンジ色の車線分離標が等間隔に並んでいた。大きな街路樹の根元だけは暗く、幹に生えた苔が黒い染みのように見えた。二人は手前の白い四角形まで歩き、そこで立ち止まった。
「ここだよな」
同僚が路面の文字を指さした。男性は頷いたが、すぐには返事をしなかった。左側から、何かを引きずるような音が聞こえたからだ。布が舗装を擦るような、ざらついた音だった。
見ると、少し先の街路樹の横に女が立っていた。
薄い灰色の服を着た、年配の女だった。幹のすぐ脇に身体を寄せ、顔を左へ向けている。髪は肩のあたりで乱れ、片方の靴が脱げかけていた。夜道を歩いてきた人にしては不自然な姿だったが、それ以上に妙だったのは、女が二人のほうをまったく見ようとしないことだった。
同僚がスマートフォンの明かりを向けた。その瞬間、女の後ろにもう一人いることが分かった。茶色い上着を着た男で、首を深く垂れ、両腕を身体の前へぶら下げていた。さっきまで女の背後には木の幹しか見えていなかったはずなのに、男は当然のようにそこに立っていた。
さらに、その後ろにも人がいた。
二人は顔を見合わせた。いつの間にか、街路樹の左側に四、五人ほどの人間が並んでいる。年齢も服装もばらばらだった。上着を着た老人、薄手のシャツを着た若い男、長いスカートの女。どの人物も顔を左へ向け、微動だにしなかった。
同僚が一歩近づいた。
すると、列の端にいた若い男が、ゆっくりと顔を上げた。口元が黒く汚れ、頬には小石のようなものがいくつも埋まっていた。唇の端から赤黒い糸のようなものが垂れている。それが乾いた血なのか、別の何かなのか、暗くてよく分からなかった。
同僚は足を止めた。
男の顔には、目がなかったという。
瞼は開いていた。ただ、その奥にあるはずの眼球が見えない。窪んだ暗い穴の中に、灰色の細かなものが詰まっていた。砂利だった。アスファルトの表面に混じっているのと同じような、小さく角張った石が、左右の眼窩を埋めていた。
男性が同僚の腕を掴んだ。帰ろう、と言いかけたとき、左側からまた布を擦る音がした。先ほどより近い。街路樹の横に並んでいた人々が、ほんの少しだけ前へ出ていた。
誰一人、足を動かしていなかった。
肩と肩が重なり、身体の輪郭がゆっくり近づいてくる。しかも、列の後ろにはさらに人が増えていた。どこから現れたのか分からない。街路樹の陰から次々に押し出されるように、人間の頭や肩が増えていく。十人を超えたあたりで、二人は数えるのをやめた。
そのとき男性は、妙なことに気づいたという。
並んでいる人々の左手首に、白いものが巻かれていた。
包帯のようにも見えたが、違った。細い布の帯が手首を一周し、端の部分だけが外側へ垂れている。病院で患者を識別するために使う腕輪にも似ていた。ほとんどの帯は汚れて灰色になっており、一部には黒い文字が印刷されていた。
列の先頭にいた年配の女が、突然こちらへ向き直った。
顔の左半分が、ひどく潰れていた。頬骨の辺りが陥没し、耳は押し潰されたように頭へ貼りついている。開いた口からは歯の欠片が覗いていた。女は何も言わず、ただ男性たちを見つめていた。
次の瞬間、同僚が左腕を引っ張られた。
身体が横へ傾き、片足が白い四角形の外へ出た。男性は慌てて腕を掴み、反対方向へ引いた。だが、同僚の身体はびくともしない。何かが左側から、強い力で引いているようだった。
「離れろ!」
男性が叫ぶと、同僚は突然前のめりに倒れた。二人はもつれるように路面へ転がった。そのとき、すぐ横で大量の足音がした。革靴、裸足、重たい作業靴。何十人もの人間が狭い場所を歩いているような音だったという。
顔を上げると、列が動いていた。
人々は相変わらず足を動かしていなかった。ただ、身体だけが少しずつ左へ滑っていく。顔の潰れた女も、眼窩に砂利の詰まった男も、次々に街路樹の左側へ吸い寄せられていた。そこに通路はない。幹のすぐ向こうには、いつもの舗装と車道があるだけだった。
それなのに、人々は消えていった。
一人ずつ、身体を左へ傾けながら、何もない空間へ入り込んでいく。肩が消え、頭が消え、最後に白い腕輪だけが暗がりに残った。腕輪はしばらく宙に浮いていたが、やがてそれも見えなくなった。
最後の一人が消えたとき、同僚が悲鳴を上げた。
左手首に、白い布が巻きついていた。
さっきまで何もなかった場所だった。細い帯が皮膚に食い込み、結び目のないまま手首を締めつけている。布の端には黒い文字があり、その下に小さな番号が印刷されていた。
男性は同僚の腕を引き、二人でその場から逃げた。後ろから追いかけてくる足音はなかった。ただ、白い文字のあたりを通り過ぎる瞬間、誰かがすぐ背後で息を吸い込む音がしたという。
翌朝、同僚は病院で手首を診てもらった。白い帯は帰宅後に鋏で切り離していたが、皮膚には深い圧迫痕が残っていた。帯を巻いた部分だけが青黒く変色し、ところどころ細かな水疱ができていたという。医師には何かで強く縛ったのだろうと言われたが、本人にはそんな覚えはなかった。
切り離した布は、捨てずに保管していた。
幅は二センチほど。汚れた綿布のような質感で、触ると妙に冷たかった。水に濡れているわけではないのに、指先へ湿り気が移る。黒い文字は古い印刷のように掠れており、読めたのは「引取待」という三文字と、その下の数字だけだった。
同僚は気味が悪くなり、布を小さなビニール袋に入れた。ところが翌日、袋の内側に水滴がついていた。布は乾いたままだった。さらに数日後、布の表面に細かな黒い粒が現れた。取り出して確認すると、路面に落ちているような小さな砂利が、繊維の内側に食い込んでいたという。
その後、二人は地元の古い商店で、この道について尋ねたことがある。
店主は、昔この辺りで交通事故があったという話をしてくれた。道路の整備が進む前、夜間に大きな事故が起き、複数の人が亡くなったらしい。現場には救急車や警察車両が集まり、運び出された人々が、街路樹の脇に一時的に並べられたという噂だった。
ただし、それを裏付ける記録は見つからなかった。事故の時期も、亡くなった人数も、人によって話が違っていた。そもそも現在の舗装路と当時の道路は形が違っていたらしく、同じ場所であったかどうかも確かではない。
店主は最後に、一つだけ妙なことを言った。
「あそこの白い文字、あれは普通の交通案内なんですよ。昔からあったものじゃないんです。でもね、夜中にあそこを通った人の中には、左へ行かないといけない気がするっていう人がいるんです」
それ以上は話してくれなかった。
あの夜から、同僚はその道を避けるようになった。手首の痕は一か月ほどで消えたが、白い布だけは捨てられなかったという。ゴミに出そうとすると、決まって左手首が強く締めつけられる感覚に襲われた。鋏で細かく切ろうとしたこともあったが、刃を入れた瞬間に手首の古傷が裂け、血が滲み始めたため、結局やめてしまった。
それから一年ほど経った頃、同僚が突然仕事を辞めた。転居先も詳しくは知らせず、連絡が取れなくなったという。男性のもとには、退職する前夜に短いメッセージが届いていた。
「腕輪の番号が変わった」
それだけだった。
男性は何度か電話をかけたが、応答はなかった。番号がどう変わったのか、何を意味しているのかも分からない。やがて連絡先そのものが使われなくなり、それきりになった。
現在、その道は特に立入禁止になっているわけではない。昼間は自転車や歩行者が普通に通り、街路樹の脇にはオレンジ色の車線分離標が並んでいる。路面の「左へ」という文字も、古い塗装が少し薄くなった程度で、今もそのまま残されている。
ただ、深夜にその場所を歩いたことがあるという人から、最近、奇妙な話が聞かれるようになった。
白い四角形の手前に立つと、左側から布を擦る音がする。街路樹のほうを見ると、人が何人も並んでいることがある。どの人物も左手首に細い帯を巻き、誰かを待っているようにじっと立っているという。
そして、列の最後には、ときどき一人分の隙間が空いているらしい。
そこへ近づくと、左手首が急に冷たくなるのだそうだ。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

