住宅街の外れに、二つの道が分かれる小さな交差点があったそうです。片方は低いフェンスに沿った歩道、もう片方は古い家々の間を抜ける細い車道。その分かれ目には、左右に投函口を持つ赤い郵便ポストと、オレンジ色の縁が付いたカーブミラーが立っていました。夏になると、ミラーの中には青空と電線、それに少し傾いた家並みが映ったといいます。
そのポストが撤去されることになったのは、郵便物の減少を受けて、全国的に集荷や配達のあり方が見直され始めた頃でした。郵便事業の赤字が四年続き、全国およそ十八万本のポストについても、維持の方法が議論されていたそうです。町内でも利用の少ないポストから整理する方針となり、交差点の赤い箱にも、撤去予定を知らせる紙が貼られました。
ところが、その知らせが出てから、妙なことが起きるようになったといいます。
最初に気づいたのは、近所の女性でした。ある晴れた午後、ポストの前を通ると、投函口の奥から紙が擦れるような音が聞こえたそうです。誰かが手紙を入れたのだろうと思い、周囲を見回しましたが、人影はありません。それでも音はしばらく続き、最後に、硬いものが箱の底に触れるような小さな音がしたといいます。
その女性は、少し離れた場所にある古い家で暮らしていました。七十歳を過ぎ、夫を亡くしてからは一人暮らしでしたが、近所付き合いは穏やかで、いつも同じ時間に買い物へ出かける人だったそうです。交差点のポストにも長い馴染みがありました。遠方で暮らす娘に手紙を出すたび、帰り道にカーブミラーを見上げるのが習慣になっていたといいます。
娘とは、もう十年以上、手紙のやり取りをしていませんでした。
喧嘩をしたわけではありません。ただ、電話で済むことが増え、やがて短い文字の連絡に変わり、それさえ誕生日や年末だけになっていたそうです。女性の家には、娘が子どもの頃に書いた手紙が、古い菓子箱にしまわれていました。封筒の裏に描かれた小さな花や、曲がった文字を、時折取り出して眺めていたといいます。
ポストの撤去まで、あと一週間となった日でした。
女性がいつものように交差点を通ると、赤い箱の足元に、一通の白い封筒が落ちていました。切手も宛名もなく、封は閉じられていません。ただ、表面に青い鉛筆で「おかあさんへ」と書かれていました。
その文字には、見覚えがあったそうです。
娘が小学校に入ったばかりの頃、初めて書いた手紙の文字によく似ていました。特に「か」の二画目が長く、最後の「へ」が少し上がっているところまで同じでした。女性は封筒を拾い、しばらくその場に立っていましたが、やがて中を確かめたといいます。
便箋は入っていませんでした。
ただ、封筒の内側に、小さな丸い跡が二つ残っていたそうです。まるで誰かが、濡れた指先で紙をつまんだような跡でした。女性は封筒を自宅へ持ち帰り、菓子箱の中にある娘の手紙と見比べました。
似ている、という程度ではなかったそうです。
小学一年生の娘が書いた最初の手紙には、まったく同じ「おかあさんへ」の文字がありました。そして、封筒の内側には、やはり二つの丸い跡がありました。娘が封をする前に、指先についた糊を拭いたのだろうと、当時は笑っていたそうです。
翌朝、女性は交差点へ戻りました。
ポストの前に立つと、カーブミラーに、見慣れない光景が映っていました。現実の道路には誰もいないのに、ミラーの中では、小さな子どもが赤いポストの前に立っていたのです。麦わら帽子をかぶり、両手で白い封筒を持っていました。
子どもは、しばらくポストを見上げていました。
そして、左側の投函口へ封筒を差し入れようとしましたが、背が届かなかったようです。何度も背伸びをして、少し困ったように首を傾げました。女性が振り向くと、ポストの前には誰もいません。それでも、ミラーの中では、子どもが懸命に背伸びを続けていたといいます。
女性が一歩近づいた時でした。
カーブミラーの中で、もう一人の姿が現れました。子どもの後ろに立った年配の女性が、そっと封筒を持ち上げ、投函口へ入れるのを手伝っていたそうです。その女性は、今の自分と同じ服を着ていました。
小さく、ことん、と音がしました。
女性がミラーから目を離すと、赤いポストの投函口が、ゆっくりと元の位置へ戻るところでした。
その夜、女性は菓子箱の手紙をすべて読み返したそうです。
娘が幼い頃に送ってくれたものは、どれも他愛のない内容でした。学校で花の種をもらったこと。給食で嫌いな野菜を食べられたこと。友達と仲直りしたこと。そして、何枚かには「おかあさん、いつもありがとう」と書かれていました。
けれど、最初の一通だけは、何度読み返しても、少し違って見えたといいます。
そこには、たった一行だけ、こう書かれていました。
「おかあさんが、おばあちゃんになっても、おてがみをかくね」
女性は、その手紙を書いてもらった時のことを思い出しました。娘は、母親もいつかおばあちゃんになるのだと知って、不思議そうな顔をしていたそうです。それでも、ずっと手紙を書くからね、と約束していたのでした。
数日後、ポストの撤去当日になりました。
作業員が二人で訪れ、赤い箱を開けました。左右の投函口を確かめ、中に残っていた郵便物を取り出し、底に落ちた紙片まで確認したそうです。集荷の記録では、前日の回収後、新たな投函は一通もなかったことになっていました。
しかし、箱の底に、一通だけ白い封筒が残っていました。
切手も宛名もない、小さな封筒でした。表には青い鉛筆で「おかあさんへ」と書かれています。裏返すと、封筒の中央に、二つの丸い跡がついていました。
作業員の一人が、その封筒を近くの女性に見せたそうです。ちょうど、家の前で掃除をしていたのです。
女性は、しばらく封筒を見つめていました。
それから、ゆっくりと首を振りました。
「それは、うちのじゃありませんよ」
そう答えた声は、穏やかだったといいます。ただ、作業員には、女性の目元が少し赤くなっているように見えました。
ポストはその日のうちに撤去されました。
残ったのは、アスファルトに開いた二つの小さな穴と、赤い塗装がわずかに移ったコンクリートの台座だけでした。カーブミラーはそのまま残され、以前と変わらず、住宅街の細い道を映していました。
それから三日後の夕方、女性の家に一通の手紙が届いたそうです。
差出人は娘でした。
何年ぶりかの手書きの便箋には、近況が短く綴られていました。仕事のこと、子どもたちのこと、最近になって昔の写真を整理したこと。そして最後に、こんな一文が添えられていました。
「この間、変な夢を見たの。小さい頃の私が、あの赤いポストに手紙を出そうとしている夢。背が届かなくて困っていたら、お母さんが手伝ってくれたの」
女性は、その手紙を何度も読み返したそうです。
けれど、娘には、ポストが撤去されることを知らせていませんでした。また、あの交差点のポストは、娘が小学校を卒業してから設置されたものだったといいます。幼い娘が、そこへ手紙を投函したことなど、一度もなかったはずでした。
女性は、久しぶりに返事を書きました。
便箋を三枚使い、近況を綴り、最後に「また手紙をください」と書き添えました。そして翌日、少し離れた場所にある別のポストへ投函しに行ったそうです。
帰り道、かつての交差点を通りかかりました。
ポストのあった場所には、もう何もありませんでした。道路には午後の日差しが落ち、電線の影が斜めに伸びていました。あのカーブミラーには、いつも通り、空と道が映っていたといいます。
ただ、一つだけ違うものがありました。
ミラーの中で、女性のすぐ後ろを、小さな子どもが歩いていたのです。
麦わら帽子をかぶった子どもでした。片手を少し上げ、女性の手を握ろうとするような仕草をしていました。女性は振り向きませんでした。ただ、何かを受け取るように、そっと右手を下ろしたそうです。
そのまま、二人は細い道の奥へ歩いていきました。
もちろん、現実の道路を歩いていたのは、女性一人だけでした。
後日、近所の人がカーブミラーを見上げた時、妙なことに気づいたといいます。
鏡面の下端に、ごく小さな手形が二つ残っていました。どちらも子どもの手ほどの大きさで、内側から押し当てたように、薄く曇っていたそうです。拭き取ろうとしても、表面には何もついていませんでした。
そして、その手形の少し上には、もう一つ、大人の手形があったといいます。
小さな二つの手を包むように、静かに重なっていたそうです。
それからしばらくして、女性は娘の家へ引っ越しました。空き家になった家には新しい住人が入り、交差点のことを昔から知る人も少なくなっていったといいます。
ただ、晴れた日の午後、あのカーブミラーの下を通ると、時折、赤いポストが映ることがあるそうです。
その前には、小さな子どもと、年老いた女性が立っています。
二人は何かを投函するわけでもなく、ただ手をつないで、道の向こうを見ているのだといいます。
郵便物がどこへ届くのか、誰も確かめたことはありません。
けれど、ある日、ポストがなくなったはずの交差点で、一通の白い封筒が見つかりました。
封筒には、何も書かれていませんでした。
ただ、内側に、二つの小さな丸い跡と、それを包むような大きな指の跡が、静かに残っていたそうです。
……そんな話を聞きました。
この怪談は、以下の記事をきっかけに生成されたフィクションです。
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